今日の箇所は、バプテスマのヨハネの弟子たちの質問によってはじまります。彼らはこう質問しました。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」バプテスマのヨハネは、荒野でラクダの毛の着物を着、野蜜とイナゴを食べ、人々に「悔い改めのバプテスマ」を授けました。そんな彼自身も、また彼の弟子たちも、非常に真面目で、禁欲的な生活をしていました。しかし、イエス様はどうであったかというと、罪人と一緒に食事をし、そのイエス様の弟子たちも、断食などをしていませんでした。そんな彼らの姿に、ヨハネの弟子たちは、ある種の「戸惑い」を感じたのでしょう。弟子たちだけではありません。この後、牢に捕らえられていたヨハネも、イエス様の噂を聞き、弟子を遣わしてこう尋ねました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。(マタイ11:3)」このように、非常に近いはずのヨハネとその弟子でさえも、イエス様と弟子たちの言動を理解するのは大変だったのです。言い方を変えれば、それほど新しく、今までとは異質なものでした。
そんな彼らに、イエス様は、布切れとぶどう酒の話をされたのです。「真新しい布切れで古い着物の継ぎ当てをするようなことはしません。そんなことをすれば、洗たくの際、新しい布だけが縮んで、古い布が破れてしまいます。」同様に「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れてはいけません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒の発酵力により、古い皮袋が破れ、中身が台無しになってしまいます。」それらは当時の、当たり前の生活の知恵であったのでしょう。大切なのは意味です。パリサイ人たちは、神様の律法をきちんと守れば祝福されるという古い信仰理解(ぶどう酒)と生活(皮袋)によって生きていました。バプテスマのヨハネと弟子たちは、形式ではなく、心から悔い改めなければ、誰も神の国に入ることはできないと、パリサイ人よりは新しい信仰理解(ぶどう酒)を持っていましたが、生活(皮袋)においてはパリサイ人と変わりありませんでした。しかしイエス様とその弟子たちは、神様の一方的な恵みに生かされ、神と隣人を自発的に愛するという、新しい信仰理解(ぶどう酒)を持っており、その生活(皮袋)においても、律法でガンジガラメだった当時の人々からしてみれば、驚くほど自由で、喜びに満ち溢れていたのです。
その喜びをイエス様は婚礼にたとえられました。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。」この花婿とはイエス様ご本人のことであり、「花婿が取り去られる」とは、イエス様が十字架にかかられる時のことです。そうだとしたら、十字架「後」の時代を生きる私たちは、やはり悲しみのうちに断食し、イエス様の再臨を待つべきなのでしょうか?いいえ違います。イエス様は3日目によみがえられ、今も助け主なる御霊を通して、私たちとともにいて下さるのです(マタイ28:20,ヨハネ14:16-17)。
だから今の時代も、婚礼の真っ最中なのです!神様は、私たちがいつも喜び、すべてのことに感謝し、自由に生きることを望んでおられます。でもその自由は、好き勝手にやる自由ではありません。聖書にはこうあります。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。御霊によって歩みなさい。(ガラテヤ5:13,16)」パリサイ人やヨハネの弟子たちは、目の前に神様を必要としている罪人たちがいても、自分たちがケガレないため、近づこうともしませんでした。しかしイエス様は、神の愛を伝えるため、当時の律法を破り、彼らと一緒に食事までされました。そして十字架にかかられて、命まで捧げられたのです。イエス様の自由とは、自分を喜ばせるためではなく、神の栄光を表し、一人でも多くの人を救いに導くための自由でした。この十字架の血しお(愛・いのち)こそ、私たちに与えられた新しい「ぶどう酒」ではありませんか。またその愛を注がれた者として、互いに仕え合うことこそ新しい生き方「皮袋」なのです。
イエス様が与える新しいいのちは、胸の内にふくれがあり、新しい愛の実践へと私たちを突き動かす!
新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。
マタイ9章17節
イエスは彼らに言われた。
「花婿につき添う友だちは、
花婿がいっしょにいる間は、
どうして悲しんだりできましょう。」
マタイ9章15節
見よ。わたしは、世の終わりまで、
いつも、あなたがたとともにいます。
マタイ28章20節
わたしは父にお願いします。
そうすれば、父はもうひとりの助け主を
あなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、
ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。
ヨハネ14章16-17節