2014年3月28日金曜日

その28「新しい皮袋」 マタイ9章10-17節

今までたくさんの「イエスのたとえ話」を読んできました。そこで気付いたのは、それぞれのたとえ話には、読んですぐに分かる「表面的な意味」と、その背後に秘められている「霊的な意味」があるということです。また、お気付きになっているかもしれませんが、それら「霊的な意味」には、ある種の共通項があります。それは、イエス様によってもたらされる、新しい時代、すなわち「神の国」がどのような性質のものであり、そこにはどのような者が入れられ、そこに入れられた者はどのように生きるべきなのかなど、すべては「神の国」を中心に語られているのです。

今日の箇所は、バプテスマのヨハネの弟子たちの質問によってはじまります。彼らはこう質問しました。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」バプテスマのヨハネは、荒野でラクダの毛の着物を着、野蜜とイナゴを食べ、人々に「悔い改めのバプテスマ」を授けました。そんな彼自身も、また彼の弟子たちも、非常に真面目で、禁欲的な生活をしていました。しかし、イエス様はどうであったかというと、罪人と一緒に食事をし、そのイエス様の弟子たちも、断食などをしていませんでした。そんな彼らの姿に、ヨハネの弟子たちは、ある種の「戸惑い」を感じたのでしょう。弟子たちだけではありません。この後、牢に捕らえられていたヨハネも、イエス様の噂を聞き、弟子を遣わしてこう尋ねました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。(マタイ11:3)」このように、非常に近いはずのヨハネとその弟子でさえも、イエス様と弟子たちの言動を理解するのは大変だったのです。言い方を変えれば、それほど新しく、今までとは異質なものでした。

そんな彼らに、イエス様は、布切れとぶどう酒の話をされたのです。「真新しい布切れで古い着物の継ぎ当てをするようなことはしません。そんなことをすれば、洗たくの際、新しい布だけが縮んで、古い布が破れてしまいます。」同様に「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れてはいけません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒の発酵力により、古い皮袋が破れ、中身が台無しになってしまいます。」それらは当時の、当たり前の生活の知恵であったのでしょう。大切なのは意味です。パリサイ人たちは、神様の律法をきちんと守れば祝福されるという古い信仰理解(ぶどう酒)と生活(皮袋)によって生きていました。バプテスマのヨハネと弟子たちは、形式ではなく、心から悔い改めなければ、誰も神の国に入ることはできないと、パリサイ人よりは新しい信仰理解(ぶどう酒)を持っていましたが、生活(皮袋)においてはパリサイ人と変わりありませんでした。しかしイエス様とその弟子たちは、神様の一方的な恵みに生かされ、神と隣人を自発的に愛するという、新しい信仰理解(ぶどう酒)を持っており、その生活(皮袋)においても、律法でガンジガラメだった当時の人々からしてみれば、驚くほど自由で、喜びに満ち溢れていたのです。

その喜びをイエス様は婚礼にたとえられました。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。」この花婿とはイエス様ご本人のことであり、「花婿が取り去られる」とは、イエス様が十字架にかかられる時のことです。そうだとしたら、十字架「後」の時代を生きる私たちは、やはり悲しみのうちに断食し、イエス様の再臨を待つべきなのでしょうか?いいえ違います。イエス様は3日目によみがえられ、今も助け主なる御霊を通して、私たちとともにいて下さるのです(マタイ28:20,ヨハネ14:16-17)。

だから今の時代も、婚礼の真っ最中なのです!神様は、私たちがいつも喜び、すべてのことに感謝し、自由に生きることを望んでおられます。でもその自由は、好き勝手にやる自由ではありません。聖書にはこうあります。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。御霊によって歩みなさい。(ガラテヤ5:13,16)」パリサイ人やヨハネの弟子たちは、目の前に神様を必要としている罪人たちがいても、自分たちがケガレないため、近づこうともしませんでした。しかしイエス様は、神の愛を伝えるため、当時の律法を破り、彼らと一緒に食事までされました。そして十字架にかかられて、命まで捧げられたのです。イエス様の自由とは、自分を喜ばせるためではなく、神の栄光を表し、一人でも多くの人を救いに導くための自由でした。この十字架の血しお(愛・いのち)こそ、私たちに与えられた新しい「ぶどう酒」ではありませんか。またその愛を注がれた者として、互いに仕え合うことこそ新しい生き方「皮袋」なのです。

イエス様が与える新しいいのちは、胸の内にふくれがあり、新しい愛の実践へと私たちを突き動かす!


新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。
マタイ9章17節





イエスは彼らに言われた。
「花婿につき添う友だちは、
花婿がいっしょにいる間は、
どうして悲しんだりできましょう。」
マタイ9章15節

見よ。わたしは、世の終わりまで、
いつも、あなたがたとともにいます。
マタイ28章20節 

わたしは父にお願いします。
そうすれば、父はもうひとりの助け主を
あなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、
ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。
ヨハネ14章16-17節

2014年3月19日水曜日

その27「種蒔き」 マルコ4章1-23節

前々回の「ぶどう園と農夫」のたとえ話と、今回の「種まき」のたとえ話しは、イエス様のたとえ話の中でも特に重要だとみなされています。なぜなら、この二つだけは、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に共通して記されているからです。また今日の本文の中でも、イエス様が「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう」と言われているように、あらゆるたとえ話の中でも「基本中の基本」として語られています。また「みことばをよく聞く」というテーマにおいては、前回の「岩の上の家」にも通じています。

たとえ話自体は単純です。ある人が、種蒔きに出かけました。①ある種は、種が道ばたに落ちて、鳥に食べられてしまいました。②別の種は、土の薄い岩地に落ち、すぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないために枯れてしまいました。③また別の種は、いばらの中に落ち、ふさがれてしまったので実を結びませんでした。④しかし最後の種は、良い地に落ち、そこで芽ばえ、育ち、三十倍、六十倍、百倍に増えて行ったのです。その直後、イエス様ご自身が説き明かされました。①道ばたに蒔かれるとは、みことばを聞いても、心が頑なに受け入れず、サタンにその種を持ち去られてしまう人のことです。②岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くとすぐに喜んで受けるが、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のことです。③いばらの中に種を蒔かれるとは、困難や迫害ではなく、その逆の富や欲望によって、心の目や耳をふさがれてしまう人です。④しかし、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れる人です。そういう人は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。そして、この一連のたとえ話はイエス様の「良く聞きなさい(3節)」に始まり「聞く耳のあるものは聞きなさい(9,23節)」で終わっているのです。

このたとえ話と、説き明かしの間には、イエス様の本音トークが添えられています。群衆たちがいなくなり、12弟子とイエス様だけになった時、イエス様は言われました。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」二重カギ括弧内は旧約聖書(イザヤ6:9)の引用です。つまりイエス様は、ある者たちには、聞いても悟ることのないように、あえて「たとえで話した」と語られているのです。でもそれは決してイジワルではありません。聞く耳のある者には、ちゃんと分かるように、身近なモチーフ(題材)で語られているということでもあります。今回のたとえ話の「種」とは「みことば」のことです。カチコチの道に落ちた種とは、最初から「聞く気のない(聞く耳をまったく持たない)」人の心のことです。聞く前から、偏見と先入観で凝り固まっているので、たとえ、みことばが、物理的には聞こえていても、ぜんぜん心に響かないのです。そうすると「リカイの反対はイカリ」と書きますが、ますます分からなくなり、次第に頑なになっていくのです。こうして「聞く耳を」持つ者は、益々豊かになり、持たない者は、持っているものまで失うのです。

一番大切なのは「聞く(聴く)耳を持ち続けること」です。どの地に蒔かれるか(蒔かれたか)ということは、運命決定論的に理解してはいけません。この人の心は、かたい道ばたのようだからもうダメだとか、この人は岩地だから、この人はいばらの中だからとか、決めつけてはけません。どんな人でも、「良い地」に変わる可能性を秘めているのです。いったいどのようにしてでしょうか?それは、みことばを聞き続けることによってです!一度は迫害に屈してしまっても、富の誘惑に負けてしまっても、一度はどうしても理解できない(受け入れられない)と思っても、それでも神様から離れないで、謙遜にみことばを聞き続けるなら、その人の心は少しずつ耕され、フカフカの良い地に変えられていくのです。しかし、最初から聞く耳を持たなかったり、聞いたけれど何にも変わらなかった、「みことばを聞いても無駄だ。もうここに救いはない」と安易に決めつけて、心の耳を閉ざしてしまうなら、その人の成長はそこで止まってしまうのです。「良い地」とは、謙遜に、みことばを聞き続け、信仰によって受け止める人の心なのです。そういう人は、天に向かってグングン成長していきます。そして神様は、そういう人を通して、神の国をこの地上に広げて下さるのです。そういう人は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶでしょう。その実とは、愛、喜び、平安といった「御霊の実」であり、神と人とを愛する人生そのものなのです。

信仰の基本中の基本とは、みことばをしっかり聞き、あきらめずに聞き続け、信仰によって受け止めることなのです。


良い地に蒔かれるとは、
みことばを聞いて受け入れ、
三十倍、六十倍、百倍の
実を結ぶ人たちです。
マルコ4章20節


そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについての
みことばによるのです。
ローマ人への手紙10章17節

2014年3月13日木曜日

その26「砂の上の家」 マタイ7章21-29節

前回は「ぶどう園と農夫」のたとえ話から学びました。「本来なら、私たちこそ、ぶどう園から追放されてもおかしくない存在です。しかし主人(神様)は私たちを捨てませんでした。それは、ひとり子であるイエス様が、私たちの代わりに捨てられてくださったからです。聖書にはこうあります。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」今日は「砂と岩の上に建てられた家」のたとえ話です。

まるで絵本にでも出てきそうな話です。あるふたりの人が、家を建てました。一人は賢い人で、もう一人は愚かな人でした。賢い人は、岩の上に建てたので、雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いても、その家は倒れませんでした。しかし、愚かな人は、砂の上に建てたので、雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いた時、その家は倒れてしまいました。イエス様の言われる賢い人とは「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」で、愚かな者とは「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者」でした。このたとえを聞いていた群衆は、イエス様が律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたので驚きました。とても分かりやすい話しです。

奇しくも昨日は「3.11」、あの東日本大震災から3年目の日でした。いま日本全体は、東北のみならず、国を挙げて災害に強い町づくりに取り組んでいます。家を建てるのは、普通の人にとって、人生の大仕事です。その家が、災害にあった時に、一瞬で傾いてしまったり、壊れてしまったりしたら、とても残念なことです。もし周りの家は大丈夫なのに、自分の家だけ傾いているなら、それこそ建て方自体に問題があったのでしょう。同じことが、私たちの人生についても言えます。私たちの人生にも、試練は突然やって来ます。病気や、仕事上の挫折、人間関係のトラブルや、愛する人の死など、そういった試練は、ある日突然やって来ます。そうして、時には、私たちの人生や私たちの心をめちゃくちゃに破壊してしまいます。あなたは大丈夫ですか?その時になってからバタバタするのではなくて、普段から、そういう事態に備えて、自分の人生に、確かな土台を築いておくことが大切なのです。そうしてイエス様によれば、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う」事こそが、自分の人生に、ゆるがない土台を築き上げることなのです。

こう聞くと、私たちはみことばを「実行すること」が大切だと思うかもしれません。それも大切ですが、それだけでは真理の半分です。その直前には「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか」という者が登場します。彼らは、自分たちの行いが、主のみこころにかなっていて、天の御国に入る時には、褒めていただけると信じて疑いませんでした。しかしイエス様は、彼らにこう宣告されます。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」何と厳しい宣告でしょう。私たちも気をつけなければいけません。自分では神様のためにやっていると思っていても、いつの間にか神様の御心そっちのけになってしまっていることはないでしょうか?自分の生きがいのためだったり、居場所や立場を守るためだったり、人から認められるためにやっていることはないでしょうか?人の目には見分けがつきませんが、その日、イエス様の前に立つ時、その人の働きの真価がすべて明らかにされるのです(Ⅰコリント3:13)。

より大切なことは、まず「御言葉にしっかり聞くこと」なのです。イエス様はこう言われました。「(天の御国は)わたしの父のみこころを行う者が入るのです。」「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」賢い者とは、まずじっくり神様のことば(みことば)に聞いて、神様の御心は何なのかを悟り、一歩一歩、主とともに歩む者なのです。そういう人は、いざ人生の嵐にあっても、慌てることがありません。そういう「聞く作業」をおろそかにし、自分の熱意や正義感で突っ走り、最後に神様の方を振り返って「神様、これらは全部、あなたのためにやったんですよ」なんて言われても、神様は「わたしはあなたのことを知らない」と言われるのです。大切なのは、まず「わたしのこれらのことばを聞く」ことなのです。「これらのことば」とは、直接的には「山上の説教全体(5-7章)」のことです。その中には「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(6:33)」とあります。神様は、その人の熱心さとか実績ではなく、その人がどれだけ主の御心を慕い求めたかを見られます。

大切なのは、どれだけ大きな家を建てたかではない、どんな土台の上に建てたかなのです。



だから、わたしのこれらのことばを聞いて
それを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた
賢い人に比べることができます。 

雨が降って洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。
岩の上に建てられていたからです。
マタイ7章24-25節


与えられた神の恵みによって、
私は賢い建築家のように、土台を据えました。
そして、ほかの人がその上に家を建てています。
しかし、どのように建てるかについては
それぞれが注意しなければなりません。
<中略>その土台とはイエス・キリストです。
Ⅰコリント3章10-11節


2014年3月6日木曜日

その25「ぶどう園と農夫」 マタイ21章33‐46節

前回のたとえ話の隠れたテーマは「権威」でした。それに先立って記されていたのは、祭司長および民の長老たちとの対話でした。イエス様が宮で教えておられると、彼らは「何の権威によって、これらのことをしているのか。」と詰め寄って来たのです。「俺たちの許可なしに何してる?俺たちの権威を軽んじるな!」というわけです。しかしイエス様は「バプテスマのヨハネは、どこから来たのですか?」と逆質問されました。彼らは応えられませんでした。ヨハネは「天から(神様の権威によって)来た」と認めていた群衆を恐れたからです。彼らが恐れていたのは「人目」だと露呈した瞬間でした。今日のたとえ話は、その直後に記されています。つまり続きです。

今日のたとえ話は、悲しい話しです。ある家の主人が、ぶどう園をつくりました。そして、その園を、農夫たちに任せて、旅に出かけたのです。でも彼らを信頼して任せただけですから、主人には収穫から自分の分を受け取る権利がありました。収穫の時期が近づいた時、主人はしもべたちを農夫たちのところに遣わしました。しかし農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋叩きにし、ひとりは殺し、一人は石で打ったのです。主人は諦めず、もっと多くのしもべたちを派遣しました。しかし農夫たちは同じ仕打ちを加えました。主人はなおも諦めず「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言い、なんと自分の息子を遣わしました。それを見た農夫たちは相談しました。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」そうして、その息子をつかまえ、ぶどう園の外で殺してしまったのです。

そもそもぶどう園は、誰ものものでしょうか?主人のものです。主人が、そのぶどう園をつくって、垣根を巡らしたのです。しかし農夫たちは、そのぶどう園を、まるで自分たちのもののように勘違いし、主人に返すべきものを惜しんだのです。自分たちはぶどう園を借りて、耕し、その収穫から、いくらか恵みをいただけるだけでも幸せなのに、いつのまにか欲が出て、所有者意識が芽生え、自分が園の主人のようになってしまったのです。この農夫たちは、直接的には、祭司長や民の長老たちのことです。彼らは、民の中の有力者で、いつも人前に立ち、発言し、神殿での儀式を取り仕切っていました。そうするうちに、段々「神の家」であるはずの神殿を、自分たちの家であるかのように勘違いしてしまったのです。だから、神のひとり子であるイエス様が現れ、ご自分の家である宮で教えたのに「俺たちの許可を得たか?」なんて、とんちんかんな事を言い出したのです。今に始まったことではありませんでした、旧約聖書の時代にも、彼らの仲間たちは、神様に遣わされたしもべたち、すなわち預言者たちを苦しめ、石で打ち、殺してきたのです。

ぶどう園の外に追い出され、殺された息子とはイエス様のことです。旧約聖書での、ぶどう園は、イスラエルの象徴(イザヤ5:7)。この後、イエス様は、イスラエル中の人々に嫌われ、罵られ、十字架につけられてしまいます。最初、この話しを聞いた人々は、自分たちとは無関係だと思い「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を別の農夫たちに貸してしまえ!」と言っていました。しかし徐々に、それが自分たちのことを言っていると分かると、彼らは激怒し、イエス様を捕らえようとしました。しかしこの時も、群衆を恐れ、できませんでした。この時点で群衆たちは、イエス様を預言者と認めていたからです。どこまでも人目を気にする祭司長たちでした。

私たちにとっても無関係ではありません。私たちにとってのぶどう園とは、神様か与えられた人生や、神様から預かっている賜物です。それらは本来、神様のものなのに、私たちはそれを、自分のものだと勘違いしていないでしょうか?そして全部自分のために使い、神様に捧げることを惜しんでいないでしょうか?そういう生き方がイエス様を十字架につけたのです。私たちこそ、ぶどう園から追放されてもおかしくない存在です。しかしそれでも私たちは、生かされ、赦され、新しいぶどう園(神の国)に招かれています。しかも農夫としてではなく、主人(神様)の子として。なぜでしょうか?それはイエス様が、私たちの代わりに見捨てられてくださったからです。聖書にこうあります。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』またその背後には、決してあきらめない神様の愛があります。私たちが何度、間違いを犯しても、それもでも信じ、再びチャンスをくださる神様。私たちは、これ程にまで愛してくださる神様を恐れ、この方にだけ仕えるべきなのです。

権威とは、すべては神様のものであることを認め、その愛に気付き、この方のために喜んで生きることである。

イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石。
それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。
私たちの目には、不思議なことである。』
マタイ21章40-42節

主よ。われらの神よ。
あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、
あなたのみこころゆえに、万物は存在し、
また創造されたのですから。
黙示録4章11節



2014年2月26日水曜日

その24「ふたりの息子」 マタイ21章23‐32節

前回は「不正な管理人」から教えられました。そこに溢れていたのは、実は「神様の恵み」でした。神様は、恵みに富んでおられ、その恵みをご一方的に注いでいて下さいます。そしてこう仰せられます。「遠慮しなくても良いから、私の恵みを、なるべく多くの人々にも分け与えなさい。そうすることが私の喜びなのだよ!」今日のテーマは、その恵みに応えて、どう生きるか、です。

今日のたとえ話は、いたってシンプルです。ある人にふたりの息子がいた。父は兄に言った。『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』。兄は『行きます。お父さん(直訳すると 主よ)』と言ったが、行かなかった。同じように弟にも頼んだら、最初は『行きたくありません』と断ったが、後から悪かったと思い出かけた。イエス様は聴いている人々に訊ねられた。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは「あとの者です」といった。イエス様は、最後にこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」とてもわかりやすいのですが、問題はその意味です。

有言実行という言葉がありますが、このたとえ話は一見「不言実行」を勧めているように聞こえます。「有言実行」とは、自分が言った通りのことをする人(結果を出す人)のことです。最近(2014.2.26)ソチオリンピックがありましたが、選手の中にもそういうタイプの人がいます。メダルを公言し、自分にもプレッシャーをかけ、言った通りの結果を残す人です。「本当にメンタルが強いなぁ」と思います。その一方で、そういう大きなことは一切言わず、でも内に秘める闘志を持ち続け、結果を残す人もいます。そういう人のことを「不言実行」といいます。その他にも「有言不実行」や「不言不実行」などがありますが、イエス様は、弟のように、大きなことは口にしないで、しかし実行する「不言実行」の人になりなさい、と教えておられるのでしょうか? 

しかし、このたとえ話に先立って、イエス様と祭司長や民の長老たちとの対話が記されています。彼らは、イエス様が宮で人々を教えていると詰め寄って来ました。そして「何の権威によって、これらのことをしているのか。」つまり「俺たちの許可は得ていないだろう」と言ってきました。その質問に、イエス様は質問で答えられました。「バプテスマのヨハネは、どこから来たのですか?」彼らは、答えられませんでした。なぜなら彼らは、バプテスマのヨハネが、神様の権威によって遣わされた預言者であることを信じていなかったので、本当は「人から」と答えたかったのですが、群衆は「天から」と認めていたので、群衆を恐れ、答えられなかったのです。その直後に「ふたりの息子」のたとえ話がされました。つまり、この話しのテーマは「権威」なのです。

結局、祭司長や、民の長老たちは、人目(人の権威)を恐れていたのです。彼らは確かに、人々に律法を正しく教え、それを実行する「有言実行型」の人々でした。しかし良く読むと、イエス様は、こう質問されています。「ふたりのうちどちらが『父の願ったとおりにした』のでしょう。」つまり父(すなわち神様)が、本当に願われていたのは、単に律法を、かたちだけ実行するだけではなく「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛すること』」でした。本当に大切なのは、むしろ「こころ」の方だったのです!でも彼らには、「行い」はありましたが、「こころ」が欠落していたのです。彼らが律法を大切にしていたのは、結局、神様を愛していたからではなく、自分の評判を気にし、人目を恐れていたからです。そうだとすると、この祭司長や民の長老たちは、「行きます。お父さん」と口では言いながらも、結局は行かず、父を悲しませた兄だったということになります。

一方、本当に赦しと、神様の恵みを体験したものは違っていました。イエス様は、こう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」これは彼らが、本当に自分の罪を認め、心の王座に神様を迎えたからです。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」と叫びましたが、彼らはそれを聞いて「悔い改め(方向転換し)、神の国(神の支配)を受け入れた」のです。そんな彼らは、最初は「行かない」と言ったけど、あとから悪かったと思い、出かけた弟のようです。神様が喜ばれるのは、間違いを犯さないけれど、神も人も愛さない人ではなく、間違いを犯すことはあっても、神様の恵みを深く理解し、神と人を心から愛する人なのです。あなたはどちらですか?

本当に神様を恐れるということは、間違いを犯さないことではなく、神と人とを心から愛することだ。


「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」
彼らは言った。「あとの者です。」
イエスは彼らに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
取税人や遊女たちのほうが、
あなたがたより先に神の国に入っているのです。
マタイ21章31節



「だから、わたしは
『この女の多くの罪は赦されている』と言います。

それは彼女がよけい愛したからです。
しかし少ししか赦されない者は、
少ししか愛しません。」

ルカ7章47節

2014年2月20日木曜日

その23「不正な管理人」 ルカ16章1-13節

私たちは、自分を罵知る人の言葉からも、学ぶことは出来ますし、そうできる人は成長します。イエス様のたとえ話も同じです。悪いたとえから、良いこと(霊的な教訓)を学ぶこともできるのです。今日の箇所は、そういう逆説的な表現をよく理解しながら、読まなければいけません。

今日のたとえ話は「不正な管理人」と呼ばれます。ある金持ちがいました。彼はしもべに、自分の財産を管理させていました。しかし彼は、主人の信頼を裏切り、それを乱費してしまったのです。怒った主人はこう言いました。「何ということをしてくれたのだ。会計報告を出しなさい!」絶体絶命のピンチに、管理人は考えます。「さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、『油百バテ(1000デナリ相当)』の借りがある者には『さあ、あなたの証文だ。すぐに座って五十と書きなさい』と言い、『小麦百コル(2500デナリ相当)』の借りがある者には『八十と書きなさい』と言い、それぞれ500デナリ(500万円)相当を割り引いてやったのです。その後、彼がどうなったのかは分かりませんが、意外なのは主人の反応です。「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」敵ながらアッパレといったところでしょうか。

イエス様の言葉(解説)にも、驚きます。「わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」イエス様が不正を奨励しておられるのでしょうか?そんなことはありません!ただイエス様は、最初にも言ったように、この不正な管理人からも、学ぶべきところがあると言っておられるのです。この「不正な富」とは、文字通りの不正な富ではなく、「この世の富」、更に言えば「この世の仕組みそのもの」とも言えるでしょう。イエス様は、私たちクリスチャンが、この世の経済や、法律、そして社会の仕組みそのものを十分に熟知して、時にはそういった仕組みも利用しながら、小さなことにも忠実に、福音を述べ伝えなさいと、言われているのではないでしょうか?土壇場に追い込まれた管理人の熱心さも、見習うべきものがあります。

その際、優先順位には気をつけなければいけません。私たちは福音宣教のために、お金をはじめ、この世の仕組みを用いることはできますが、その逆は許されないのです。多くの人がその間違いを犯します。すなわち、お金もうけのために神様を利用しようとしたり、地位や名声のために主の御名を持ちだしたりするのです。違いは紙一重ですが、神様以外のものを第一とする時、それが私たちの「偶像」なのです。イエス様は、最後にこう仰せられました。「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

しかし、このたとえ話で一番に気付かなければいけないのは、その背後にある「霊的な意味」です。不正な管理人が、主人のお金をみんなにばらまいた時、なぜか主人は管理人を褒めておられます。主人が怒ったのは、むしろ管理人が、主人のお金を、自分のためだけに用い、乱費していた時でした。でも、そのお金を気前よく、分け与えるぶんには、むしろ喜んでおられるのです。不思議ですが、これこそが「神様の恵み」なのです。神様には、ご自分の恵みを、内に留めておくという発想自体がありませんでした。私たちは、その神様から、溢れんばかりの恵みを、一方的にいただいているのです。そして神様は、私たちに、こう仰っておられます。「遠慮しなくても良いから、私の恵みを、なるべく多くの人々にも分け与えなさい。そうすることが私の喜びなのだよ!」

この恵みは一人占めできません。神様の目的は、この恵みをいただいた者たちが、主にある兄弟姉妹、友となり、新しい共同体を築き、ともに助け合い、天の御国に招き入れられることです。イエス様のことばは、こうとも言いかえることが出来るでしょう。「労せずにいただいた恵みで、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、あなたが躓く時にも、彼らがあなたがたを助けてくれるでしょう。そうして、あなたがたは、ともに永遠の住まいに入れられるのです。」これはイスラエルと異邦人の関係にもいえます。まず福音の管理を任されたイスラエルに、神様が一番望まれたことは、その福音を全世界の民と分かち合うことでした。そうしたら、福音によって救われた異邦人が、後の日にあなたがたに手を差し伸べてくれるだろう。そうして、あなた方は一つの家族となって天の御国に入るのです(エペソ3:6-7)。大切なのは、分かち合う姿勢なのです。

与えることに、躊躇してはいけない。神様は、分け与える者を、喜んでくださいます。



そこで、わたしはあなたがたに言いますが、
不正の富で、自分のために友をつくりなさい。
そうしておけば、富がなくなったとき、
彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
ルカ16章9節


与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
ルカ6章38節

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、
異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、
ともに約束にあずかる者となるということです。
私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、
この福音に仕える者とされました。
エペソ3章6-7節




2014年2月6日木曜日

その22「金持ちとラザロ」 ルカ16章19-31節

前回は「ぶどう園で働く労務者」のたとえ話から学びました。そのあらすじは簡単にいえば、早朝から働いた者も、午前9時、正午、午後3時、はたまた夕方の5時から働いた者も、同じ一デナリの賃金をいただくという、何とも理不尽に聞こえる話しでした。でもそれが「天の御国」だとイエス様は言うのです。つまり1デナリとは「永遠のいのち」のことです。「永遠のいのち」は、働きに対する「対価」のようなものではなく、ただ神様からの「一方的な恵み」なのです。 今日のたとえ話の登場人物は、聖書のたとえ話では唯一、固有名詞(名前)で呼ばれています。

彼の名前はラザロと言いました。彼はとても悲惨な人物としてえがかれています。全身におできができて、来る日も来る日も金持ちの門前に身を横たえていました。その姿は、旧約聖書に登場する、頭の頂から足の裏まで悪性の腫物で覆われた、苦難のしもべヨブを思い出させ、「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」姿は、豚のえさで腹を満たしたいと思っていた放蕩息子を思い出させます。更に犬が彼のおできをなめていた点において、このラザロは、卑しい動物として扱われていた、犬にも憐れまれる存在として描かれているのです。一方の金持ちは、まるで王様のように(権力の象徴である)紫の衣を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていました。そしてある日突然、ラザロは天に召され、まもなく、この金持ちも息を引き取ったのです。 

その後、場面はいっきに、ハデス(地獄)と天の御国に移ります。ここで登場しているのは、信仰の父であり、イスラエルの父(祖)であるアブラハムです。ラザロはそのアブラハムのふところに抱かれて、金持ちは、はるかかなたで炎に包まれています。アブラハムは、この金持ちに二つのことを語ります。一つは、金持ちが生前、ラザロをはじめ貧しい者たちに冷淡であったことを暗に非難しています。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」もう一つは、一度死んでしまってから、天国と地獄は、決して行き来できないことです。「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできない。」ちなみにイエス様は、このたとえ話で、神様が語るべきことを、全てアブラハムに語らせています。それは、神様よりもアブラハムの方が信仰により所になってしまっている、彼らのズレを気付かせるためです。 

このたとえ話の意味は何でしょうか。貧しい人や、困っている人には、親切にしなさいという「道徳」を教えておられるのでしょうか?確かにそういう意味もあります。しかし、このたとえ話の意味は、それ以上です。この話しの直前に「金の好きなパリサイ人(ルカ16:14)」という言葉が登場しますが、今日の「金持ち」は、パリサイ人のことです。彼らはもともと、比較的貧しい人々の集団であり、純粋に神様を求め、人々に熱心に旧約聖書の律法を教えていました。しかし、段々と人々から尊敬され、広場で挨拶されるようになると、その時代の特権階級となり、お金に目がくらみ、本来の純粋さをなくして行ったのです。そして、自分たちは、誰よりも神様を「正しく信じている」という自分の義に酔いしれ、人々に対する救霊の思い(神様を知ってほしいという情熱)を失ってしまったのです。一方のラザロは、彼らの周りに溢れていた、罪にまみれ、自分の力では立ち上がることのできない、本当に意味で神様を必要としている人々のことでした。なのに彼らは、本当の神様を知りながら、そういう人々に冷淡で、差別や軽蔑さえしていたのです。 

更に続きがあります。金持ちはアブラハムに「ラザロを家に送ってください」と叫ぶのです。ハデスの火があまりにも苦しく「自分の兄弟までもがこんなところにくることのないように」と頼ってのことです。それに対しアブラハムは、やはり二つのことを答えます。一つは、与えられている「モーセと預言者」つまり「聖書」で十分だということ。もう一つは、その聖書に耳を傾けないなら「誰かが死んでよみがえっても、決して悔い改めない」ということ。事実、パリサイ人たちは、同じ名前のラザロ(ヨハネ11章、偶然の一致ではない)がよみがえっても、また何より、イエス様が十字架にかかり3日目によみがえられても聞き入れようとはしませんでした。私たちも、何か劇的なことが起こったら信じようと思ったことはないでしょうか?でも必要なことは、すべて聖書に書いてあるのです。その御言葉を信じ、たとえラザロのように、苦難の道を歩むことがあっても「神は我が救い(ラザロの意味)」と神様に希望を置き、前進し続けることが大切なのです。

人は「○○だったら」と考えたがる。
でも答えはもう既に与えられている。


『彼らには、モーセと預言者があります。
その言うことを聞くべきです。』
ルカ16章29節






聖書はあなたに知恵を与えて

キリスト・イエスに対する信仰による救いを

受けさせることができるのです。 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 

Ⅱテモテ3章15-16節