2014年2月26日水曜日

その24「ふたりの息子」 マタイ21章23‐32節

前回は「不正な管理人」から教えられました。そこに溢れていたのは、実は「神様の恵み」でした。神様は、恵みに富んでおられ、その恵みをご一方的に注いでいて下さいます。そしてこう仰せられます。「遠慮しなくても良いから、私の恵みを、なるべく多くの人々にも分け与えなさい。そうすることが私の喜びなのだよ!」今日のテーマは、その恵みに応えて、どう生きるか、です。

今日のたとえ話は、いたってシンプルです。ある人にふたりの息子がいた。父は兄に言った。『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』。兄は『行きます。お父さん(直訳すると 主よ)』と言ったが、行かなかった。同じように弟にも頼んだら、最初は『行きたくありません』と断ったが、後から悪かったと思い出かけた。イエス様は聴いている人々に訊ねられた。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは「あとの者です」といった。イエス様は、最後にこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」とてもわかりやすいのですが、問題はその意味です。

有言実行という言葉がありますが、このたとえ話は一見「不言実行」を勧めているように聞こえます。「有言実行」とは、自分が言った通りのことをする人(結果を出す人)のことです。最近(2014.2.26)ソチオリンピックがありましたが、選手の中にもそういうタイプの人がいます。メダルを公言し、自分にもプレッシャーをかけ、言った通りの結果を残す人です。「本当にメンタルが強いなぁ」と思います。その一方で、そういう大きなことは一切言わず、でも内に秘める闘志を持ち続け、結果を残す人もいます。そういう人のことを「不言実行」といいます。その他にも「有言不実行」や「不言不実行」などがありますが、イエス様は、弟のように、大きなことは口にしないで、しかし実行する「不言実行」の人になりなさい、と教えておられるのでしょうか? 

しかし、このたとえ話に先立って、イエス様と祭司長や民の長老たちとの対話が記されています。彼らは、イエス様が宮で人々を教えていると詰め寄って来ました。そして「何の権威によって、これらのことをしているのか。」つまり「俺たちの許可は得ていないだろう」と言ってきました。その質問に、イエス様は質問で答えられました。「バプテスマのヨハネは、どこから来たのですか?」彼らは、答えられませんでした。なぜなら彼らは、バプテスマのヨハネが、神様の権威によって遣わされた預言者であることを信じていなかったので、本当は「人から」と答えたかったのですが、群衆は「天から」と認めていたので、群衆を恐れ、答えられなかったのです。その直後に「ふたりの息子」のたとえ話がされました。つまり、この話しのテーマは「権威」なのです。

結局、祭司長や、民の長老たちは、人目(人の権威)を恐れていたのです。彼らは確かに、人々に律法を正しく教え、それを実行する「有言実行型」の人々でした。しかし良く読むと、イエス様は、こう質問されています。「ふたりのうちどちらが『父の願ったとおりにした』のでしょう。」つまり父(すなわち神様)が、本当に願われていたのは、単に律法を、かたちだけ実行するだけではなく「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛すること』」でした。本当に大切なのは、むしろ「こころ」の方だったのです!でも彼らには、「行い」はありましたが、「こころ」が欠落していたのです。彼らが律法を大切にしていたのは、結局、神様を愛していたからではなく、自分の評判を気にし、人目を恐れていたからです。そうだとすると、この祭司長や民の長老たちは、「行きます。お父さん」と口では言いながらも、結局は行かず、父を悲しませた兄だったということになります。

一方、本当に赦しと、神様の恵みを体験したものは違っていました。イエス様は、こう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」これは彼らが、本当に自分の罪を認め、心の王座に神様を迎えたからです。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」と叫びましたが、彼らはそれを聞いて「悔い改め(方向転換し)、神の国(神の支配)を受け入れた」のです。そんな彼らは、最初は「行かない」と言ったけど、あとから悪かったと思い、出かけた弟のようです。神様が喜ばれるのは、間違いを犯さないけれど、神も人も愛さない人ではなく、間違いを犯すことはあっても、神様の恵みを深く理解し、神と人を心から愛する人なのです。あなたはどちらですか?

本当に神様を恐れるということは、間違いを犯さないことではなく、神と人とを心から愛することだ。


「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」
彼らは言った。「あとの者です。」
イエスは彼らに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
取税人や遊女たちのほうが、
あなたがたより先に神の国に入っているのです。
マタイ21章31節



「だから、わたしは
『この女の多くの罪は赦されている』と言います。

それは彼女がよけい愛したからです。
しかし少ししか赦されない者は、
少ししか愛しません。」

ルカ7章47節

2014年2月20日木曜日

その23「不正な管理人」 ルカ16章1-13節

私たちは、自分を罵知る人の言葉からも、学ぶことは出来ますし、そうできる人は成長します。イエス様のたとえ話も同じです。悪いたとえから、良いこと(霊的な教訓)を学ぶこともできるのです。今日の箇所は、そういう逆説的な表現をよく理解しながら、読まなければいけません。

今日のたとえ話は「不正な管理人」と呼ばれます。ある金持ちがいました。彼はしもべに、自分の財産を管理させていました。しかし彼は、主人の信頼を裏切り、それを乱費してしまったのです。怒った主人はこう言いました。「何ということをしてくれたのだ。会計報告を出しなさい!」絶体絶命のピンチに、管理人は考えます。「さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、『油百バテ(1000デナリ相当)』の借りがある者には『さあ、あなたの証文だ。すぐに座って五十と書きなさい』と言い、『小麦百コル(2500デナリ相当)』の借りがある者には『八十と書きなさい』と言い、それぞれ500デナリ(500万円)相当を割り引いてやったのです。その後、彼がどうなったのかは分かりませんが、意外なのは主人の反応です。「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」敵ながらアッパレといったところでしょうか。

イエス様の言葉(解説)にも、驚きます。「わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」イエス様が不正を奨励しておられるのでしょうか?そんなことはありません!ただイエス様は、最初にも言ったように、この不正な管理人からも、学ぶべきところがあると言っておられるのです。この「不正な富」とは、文字通りの不正な富ではなく、「この世の富」、更に言えば「この世の仕組みそのもの」とも言えるでしょう。イエス様は、私たちクリスチャンが、この世の経済や、法律、そして社会の仕組みそのものを十分に熟知して、時にはそういった仕組みも利用しながら、小さなことにも忠実に、福音を述べ伝えなさいと、言われているのではないでしょうか?土壇場に追い込まれた管理人の熱心さも、見習うべきものがあります。

その際、優先順位には気をつけなければいけません。私たちは福音宣教のために、お金をはじめ、この世の仕組みを用いることはできますが、その逆は許されないのです。多くの人がその間違いを犯します。すなわち、お金もうけのために神様を利用しようとしたり、地位や名声のために主の御名を持ちだしたりするのです。違いは紙一重ですが、神様以外のものを第一とする時、それが私たちの「偶像」なのです。イエス様は、最後にこう仰せられました。「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

しかし、このたとえ話で一番に気付かなければいけないのは、その背後にある「霊的な意味」です。不正な管理人が、主人のお金をみんなにばらまいた時、なぜか主人は管理人を褒めておられます。主人が怒ったのは、むしろ管理人が、主人のお金を、自分のためだけに用い、乱費していた時でした。でも、そのお金を気前よく、分け与えるぶんには、むしろ喜んでおられるのです。不思議ですが、これこそが「神様の恵み」なのです。神様には、ご自分の恵みを、内に留めておくという発想自体がありませんでした。私たちは、その神様から、溢れんばかりの恵みを、一方的にいただいているのです。そして神様は、私たちに、こう仰っておられます。「遠慮しなくても良いから、私の恵みを、なるべく多くの人々にも分け与えなさい。そうすることが私の喜びなのだよ!」

この恵みは一人占めできません。神様の目的は、この恵みをいただいた者たちが、主にある兄弟姉妹、友となり、新しい共同体を築き、ともに助け合い、天の御国に招き入れられることです。イエス様のことばは、こうとも言いかえることが出来るでしょう。「労せずにいただいた恵みで、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、あなたが躓く時にも、彼らがあなたがたを助けてくれるでしょう。そうして、あなたがたは、ともに永遠の住まいに入れられるのです。」これはイスラエルと異邦人の関係にもいえます。まず福音の管理を任されたイスラエルに、神様が一番望まれたことは、その福音を全世界の民と分かち合うことでした。そうしたら、福音によって救われた異邦人が、後の日にあなたがたに手を差し伸べてくれるだろう。そうして、あなた方は一つの家族となって天の御国に入るのです(エペソ3:6-7)。大切なのは、分かち合う姿勢なのです。

与えることに、躊躇してはいけない。神様は、分け与える者を、喜んでくださいます。



そこで、わたしはあなたがたに言いますが、
不正の富で、自分のために友をつくりなさい。
そうしておけば、富がなくなったとき、
彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
ルカ16章9節


与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
ルカ6章38節

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、
異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、
ともに約束にあずかる者となるということです。
私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、
この福音に仕える者とされました。
エペソ3章6-7節




2014年2月6日木曜日

その22「金持ちとラザロ」 ルカ16章19-31節

前回は「ぶどう園で働く労務者」のたとえ話から学びました。そのあらすじは簡単にいえば、早朝から働いた者も、午前9時、正午、午後3時、はたまた夕方の5時から働いた者も、同じ一デナリの賃金をいただくという、何とも理不尽に聞こえる話しでした。でもそれが「天の御国」だとイエス様は言うのです。つまり1デナリとは「永遠のいのち」のことです。「永遠のいのち」は、働きに対する「対価」のようなものではなく、ただ神様からの「一方的な恵み」なのです。 今日のたとえ話の登場人物は、聖書のたとえ話では唯一、固有名詞(名前)で呼ばれています。

彼の名前はラザロと言いました。彼はとても悲惨な人物としてえがかれています。全身におできができて、来る日も来る日も金持ちの門前に身を横たえていました。その姿は、旧約聖書に登場する、頭の頂から足の裏まで悪性の腫物で覆われた、苦難のしもべヨブを思い出させ、「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」姿は、豚のえさで腹を満たしたいと思っていた放蕩息子を思い出させます。更に犬が彼のおできをなめていた点において、このラザロは、卑しい動物として扱われていた、犬にも憐れまれる存在として描かれているのです。一方の金持ちは、まるで王様のように(権力の象徴である)紫の衣を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていました。そしてある日突然、ラザロは天に召され、まもなく、この金持ちも息を引き取ったのです。 

その後、場面はいっきに、ハデス(地獄)と天の御国に移ります。ここで登場しているのは、信仰の父であり、イスラエルの父(祖)であるアブラハムです。ラザロはそのアブラハムのふところに抱かれて、金持ちは、はるかかなたで炎に包まれています。アブラハムは、この金持ちに二つのことを語ります。一つは、金持ちが生前、ラザロをはじめ貧しい者たちに冷淡であったことを暗に非難しています。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」もう一つは、一度死んでしまってから、天国と地獄は、決して行き来できないことです。「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできない。」ちなみにイエス様は、このたとえ話で、神様が語るべきことを、全てアブラハムに語らせています。それは、神様よりもアブラハムの方が信仰により所になってしまっている、彼らのズレを気付かせるためです。 

このたとえ話の意味は何でしょうか。貧しい人や、困っている人には、親切にしなさいという「道徳」を教えておられるのでしょうか?確かにそういう意味もあります。しかし、このたとえ話の意味は、それ以上です。この話しの直前に「金の好きなパリサイ人(ルカ16:14)」という言葉が登場しますが、今日の「金持ち」は、パリサイ人のことです。彼らはもともと、比較的貧しい人々の集団であり、純粋に神様を求め、人々に熱心に旧約聖書の律法を教えていました。しかし、段々と人々から尊敬され、広場で挨拶されるようになると、その時代の特権階級となり、お金に目がくらみ、本来の純粋さをなくして行ったのです。そして、自分たちは、誰よりも神様を「正しく信じている」という自分の義に酔いしれ、人々に対する救霊の思い(神様を知ってほしいという情熱)を失ってしまったのです。一方のラザロは、彼らの周りに溢れていた、罪にまみれ、自分の力では立ち上がることのできない、本当に意味で神様を必要としている人々のことでした。なのに彼らは、本当の神様を知りながら、そういう人々に冷淡で、差別や軽蔑さえしていたのです。 

更に続きがあります。金持ちはアブラハムに「ラザロを家に送ってください」と叫ぶのです。ハデスの火があまりにも苦しく「自分の兄弟までもがこんなところにくることのないように」と頼ってのことです。それに対しアブラハムは、やはり二つのことを答えます。一つは、与えられている「モーセと預言者」つまり「聖書」で十分だということ。もう一つは、その聖書に耳を傾けないなら「誰かが死んでよみがえっても、決して悔い改めない」ということ。事実、パリサイ人たちは、同じ名前のラザロ(ヨハネ11章、偶然の一致ではない)がよみがえっても、また何より、イエス様が十字架にかかり3日目によみがえられても聞き入れようとはしませんでした。私たちも、何か劇的なことが起こったら信じようと思ったことはないでしょうか?でも必要なことは、すべて聖書に書いてあるのです。その御言葉を信じ、たとえラザロのように、苦難の道を歩むことがあっても「神は我が救い(ラザロの意味)」と神様に希望を置き、前進し続けることが大切なのです。

人は「○○だったら」と考えたがる。
でも答えはもう既に与えられている。


『彼らには、モーセと預言者があります。
その言うことを聞くべきです。』
ルカ16章29節






聖書はあなたに知恵を与えて

キリスト・イエスに対する信仰による救いを

受けさせることができるのです。 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 

Ⅱテモテ3章15-16節