たとえ話を読む際、大切なのは、それが「誰に語られているか」です。イエス様がたとえ話をされる時には、必ず「きっかけ」があります。人々との出会いがあるのです。そしてその相手に、大切なことを伝えたくて、そして気付いてほしくて、たとえ話が生まれるのです。今日の話しの中で、まず登場しているのは、「取税人や罪人たち(1)」です。罪人というのは、読んで字のごとく、罪を犯した(犯している)人のことです。もしかしたら法を犯したのかもしれませんし、そうでなくても、信仰的な人々から見れば、神様のみこころに背いている人々のことです。問題なのは取税人です。取税人というのは、同胞のユダヤ人から税金を集めて、当時の占領国ローマに納める人のことです。ローマはそれを各地域の民間業者に請け負わせていました。ですから、取税人は同胞のユダヤ人から「ローマの犬(手下)」だと嫌われていたのです。また彼らが日常的に不正を働き、必要以上に集め、私腹を肥やしていたとも言われます。そういうこともあって、普通のユダヤ人であれば、彼らと食事はとることはおろか、道で会っても目も合わせず、口もきこうとしませんでした。しかし、イエス様は、自ら彼らに近づき、一緒に食事を取られたのです(2)。
それを見て、つぶやいたのが「パリサイ人や律法学者たち」でした。「パリサイ人」とは直訳すると「分離された者」です。彼らはとにかく旧約聖書の律法を厳格に守ることで知られていました。その中でも、特に聖書知識に通じていたのが「律法学者」たちです。一説によれば、これは「あだ名」だとも言われています。「自分は君たちとは違う」という「他の人々から分離した生き方」が、そう呼ばせていたのです。イスラエルの民は、長く不遇な歴史をたどってきました。占領され、散らされ、奴隷にされ…。その中で民族的および信仰的アイデンティティーを保つためには、極端なまでに周りから自分を分離して生きる必要があったのでしょう。たとえ周りのみんなが躓いても「自分だけでも正しく生きる」くらいの強さが…。彼らは旧約聖書の預言された救い主を待ちわびていました。そして、ついに「そうかもしれない」と噂されるイエスが現れたのです!当然彼らは、まっさきに自分達に近づき、仲間になり、同じ生き方をしてくれるものと思っていました。しかしなんと、イエス様は、まず「取税人や罪人」に近づき、彼らと一緒に、親しげに食事を始められたのです。彼らは深く失望するとともに、怒り、ねたみ、「つぶやいた」のです。
あなたは分離主義者の仲間ですか?それとも失われた一匹を捜されるイエス様の仲間ですか?
あなたがたに言いますが、
それと同じように、
ひとりの罪人が悔い改めるなら、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人に
悔い改める必要のない九十九人の正しい人に
まさる喜びが天にあるのです。
ルカ15章7節