「おなたも行って同じようにしなさい。」イエス様は、最後にこう言われました。そもそも、このたとえ話は、律法の専門家の「では、私の隣人とは、誰のことですか?」との問いかけによって始まりました。以前も話しましたが、この律法の専門家は、その問いに対する「正しい答え」を、自分なりに用意していました。それは「同胞のユダヤ人で、律法を守る者こそが『私の隣人』で、愛すべき対象です。でも、それ以外の者は、愛さなくても良い」という考えでした。でもイエス様は、そんな彼に「あなたは議論ばかりをして、本質を見失っている。あなたは最も大切なことを忘れている。本来の信仰とは、目の前に倒れた人がいたら、単純にかわいそうだと思い、その気持ちを、すぐに行動に移す事だ」と教えておられるのです。イエス様のお気持ちは、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか?(36)」との問いの中にも現れています。もちろん「かわいそうに思って、その人に憐みをかけてあげた人」なのです。他の聖書の箇所にもこうある通りです。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:26-27)」でも大切なことは、それだけではありません。
イエス様の教えは、困っている人を助けなさい、という道徳以上のものです。このたとえ話は「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか(25)」という律法の専門家の質問にも、答えていることも忘れてはいけません。もしイエス様の教えが、単に困っている人を助けなさい、という道徳であるならば、結局のところ「何か良いことをしたら永遠のいのちを受け取ることができる」という、律法の専門家の考え方に賛成しているのではないでしょうか?そういう考え方のことを、律法主義といいますが、イエス様は聖書の中で、この律法主義に対し、NOを突き付けておられます。なぜなら、それは神様を必要とせず、自分の力で自分を救おうとする、自分を神とする偶像崇拝だからです。人間の罪は「あなたは神のようになる(創世記3:5)」というサタンの誘惑に負けることから始まりました。聖書にもこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)」これこそ、この話の、もう一つのメッセージです。
本当に大切なことは、このたとえ話の表面的な意味の奥に隠されている「奥義」に気付くことです。だからといって、表面的な意味は重要でない、と言っているのではありません。「あなたも行って同じようにしなさい。」このメッセージを真摯に受け止め、知らんふりを止め、困っている人々に寄り添うことは大切です。しかし、必ず限界があります。真剣に受け止めるほど、私たちは自分の中にも、あのレビ人や祭司が宿っていることを発見するのです。その時私たちは気づきます。実は自分こそが、瀕死の状態で倒れている者であり、助けを必要としているという現実を。そして自分は、人を救えないばかりか、自分さえも救うことのできない罪人なのだということに気付くのです。憐れみ深いサマリヤ人は、イエス様のことです。イエス様は、倒れている私たちに憐れみをかけ、駆け寄り、十字架にかかり、救ってくださいました。このように愛された者として、その愛を周りの人々に少しずつお返しして行くのが、私たちの、残された人生の、使命なのです。
愛することによって、愛のなさが分かる。愛のなさが分かると、永遠の愛が分かり始める。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を
明らかにしておられます。