登場人物は二人、パリサイ人と取税人です。彼らはそれぞれ「義人(正しい人)」と「罪人(つみびと)」の代表のような存在です。以前にも説明しましたが、パリサイ人は旧約聖書に書いてある律法(宗教生活上のおきて)を厳格に守る人であり、他の人々もちゃんと守っているかチェックする人々でした。イエス様は、今日のたとえ話を「自分を義人だと自任し(「うぬぼれ」新共同訳)、他の人々を見下している者たちに対して」語られましたが、きっとそれは、パリサイ人本人のことであったでしょう。そのパリサイ人はこう祈ります。「神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」確かに立派な行いです。でも、はたして、これが、本当に「祈り」と言えるのでしょうか?彼が見ているのは、「自分の正しい行い」と「そう生きられないダメな人々」だけです。いちおう「神よ」とは呼びかけてはいるものの、人と比較して、結局は自分の優位性をアピールしているかのようです。
もう一方の取税人はどうであったでしょうか?聖書にはこうあります。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」彼は、他のみんなが祈りを捧げている宮には近づこうともしませんでした。近づけなかったのです。人目を気にしていたのではなく、自分みたいな人間は、そういう聖い場所には相応しくないと思ったのです。そして天を仰ぐこともできず、自分の胸を打ちたたいて、ひとこと「神様こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈ったのです。彼は、自分の罪だけを見つめて、嘆いていたのではなく、神様の前に出て、正直に告白し、憐れみを求めました。話し終えたイエス様はこう言われました。「あなたがたに言うが、この人(取税人)が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とてもわかりやすい話しです。でも実際の世の中はそんなに単純でしょうか?世の中には、パリサイ人のように行いが正しくて、謙遜な人もいますし、取税人のように不正を働きながら、なおかつ傲慢な人もいるのです。さらに「私は、あんなパリサイ人のようではないことを感謝します!」と正義感をかざして、逆差別をする人もあるでしょう。イエス様は、このたとえ話を通して、いったい何を教えているのでしょうか?
それは「神様の目から見た本当の義人について」です。このたとえ話は「自分を義人だと自任し、人を見下す、うぬぼれた人」に語られていますが、彼らが本当に「神様の目から見て、義人だったかどうか」は別問題です。彼らは、確かに、行いにおいては素晴らしかったのですが、残念ながら、神様が一番関心を持っておられるのは「心」なのです。パリサイ人たちは、神を敬っているようで、自分の力に頼りきっており、人を見下していました。義人の「義」の字は、イエス様の象徴である「羊」(ヨハネ1:29)と、「我(われ)」という部首によって成り立っています。この場合「羊」が「我」の上に来ていることが大切なのです。しかし、パリサイ人たちは、心の中で、自分を高く上げて、ある意味、神様よりも自分を高くしていたのではないでしょうか?聖書のいう罪は、そういう心の状態のことをいいます。彼らは、義(神様から認められることを)を必死に追い求めながら、その正反対の方向に暴走していたのです。それに対して取税人は、自分の罪を認め、自分はその罪に対して無力であり、赦して下さる神様の一方的な憐れみにすがりました。だから彼らは「義」と認められたのです。まさしく「だれでも自分を高くする者は低くされ、神様の前に自分を低くするものは、『義』と認められるからです」と言われている通りなのです。
本当に大切なのは、何をしているかではなくて、
何を大切に生きているかです。
それがあなたの生き方になるからです。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それを
神よ。あなたは、それを
さげすまれません。」