今日のたとえ話に登場するのは「不正な裁判官」です。どうして普通に「裁判官の話」ではなく、わざわざ「不正な裁判官」と呼ぶのでしょうか?それはこの裁判官が「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であったからです。では「神を恐れず、人を人とも思わない」とはどういう意味でしょうか?「神を恐れる」とは、分かりやすくいうと「たとえ誰も見ていなくても、目には見えない神様が見ておられることを信じて、正しいことを行うこと」です。また「人を人と思う」とは「人を人として、尊厳をもって扱う」ことです。つまりそれが出来ていなかったこの裁判官は、人が見ていないところで賄賂(わいろ)などをもらい判断をねじ曲げたり、相手が「やもめ」だからと言って「あなどり」、審議や判決においても軽んじていたと考えられます。だから彼は「不正な裁判官」なのです。そもそも裁判官とは「人が人を裁く仕事」であり、神様の代務者のような権力をもっていますから、不正に陥りやすい誘惑があるのかもしれません。だから聖書では「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない(レビ19:15)」と厳しく戒められているのです。
そこに、ひとりのやもめがやってきます。彼女は言いました。「私の相手をさばいて、私を守ってください。」やもめですから、夫を亡くしたのでしょう。もしかしたら、そんな弱みに付け込んで、土地や財産をだまし取ろうとする悪い人がいたのかもしれません。そこで法律によって自分を守ってくれるよう裁判官にお願いしたのです。しかし、彼はなかなか取り合おうとしませんでした。面倒な割に、お金になりそうになかったので、無視していたのでしょうか。でも彼女は諦めず、頼み続けました。すると不正な裁判官も、さすがに「このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」と、重い腰を上げたのです。イエス様はこう話されて後、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい」、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と言われました。「選民」とは、イスラエルだと読めないこともありませんが、前後の文脈より「イエスの弟子・クリスチャン」のことでしょう。イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネ15:16)」とも仰せられました。イエス様は、その私たちを「決して放っておかれない!」のです。
この世は不条理だらけです。悪者の不正が暴かれず、正しい者が損をすることがよくあります。選民であるクリスチャンも例外ではありません。信仰を持つがゆえの、不条理な体験というものもあるでしょう。イエス様は「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と仰せられました。これは直前の17章25-30節を受けての言葉ですが、人の子とは、人としてお生まれになった、神のひとり子イエス様のことです。このイエス様は既に来られましたし、もう一度来られると約束されています。神様の正しい裁きは、この再臨の時に完成するのですが、今の時代はまだその途上にあるのです。イエス様は別な箇所で「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい(ヨハネ16:33)」と仰せられました。そうです。あのやもめのように、ちょっとやそっと不条理な扱いを受けたからといって、いじけず、へこたれず、失望することなく、ますます神により頼む(祈る)者となりなさいと教えられているのです。なぜなら私たちの神様は、私たちのことを誰よりも愛し「決して放っておかれない方」だからです。
失望せずに祈り続けなさい。暗いトンネルの向こうには、
思いもよらない答えと、神様との新しい出会いが待っているから。