その後、イエス様は色々なたとえを用いて「神の国(神様の愛と義の回復と、やがて来る完成)」について教えられました。イエス様の教えはますます広がり、パリサイ人たちの反発も強くなりました。
ある食事の席で、ある人が「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう!」と言いました。14章1節を見る時、彼もまたパリサイ派の指導者の家の食事に招かれた客の一人であったことが分かります。おそらく彼自身もパリサイ派だったのでしょう。その席で(つまり彼の目の前で)イエス様は病人を癒されました(2-4)。また直前の13節では「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」と教えられました。きっと彼はそういったイエス様の言葉や行いを見ながら、イエス様の教えている神の国が、どういうものであるかを理解しはじめたのでしょう。神様の力と愛とが、今まさに力強く到来し、あらゆる涙と悲しみがいやされる新しい時代が始まりつつあることを!そこで彼はイエス様と一緒に食事をしながら、感動を抑えきれず「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と叫んだのです。でもだからと言って、イエス様の弟子になる決心をしたわけではありません。教えには感激し、惹かれていましたが、すべてを捨てて、パリサイ派の仲間たちからの冷たい視線に耐えてまで、イエス様について行く覚悟はなく、ましてや神の国を一緒に広げようという決心もありませんでした(使徒5:12-13)。そんな彼を見てイエス様は「盛大な宴会」の話をされました。
たとえ話の中で、盛大な宴会に招待された人は、次々に辞退しはじめました。全ての準備が整い「さぁおいでください」と招かれているのに、招待客たちは直前になって「畑を買ったので」「牛を買ったので」「結婚したので」と断り始めました。口をそろえたように「すみませんが」とは言っているものの、本当に悪いと思っているのでしょうか。結局は「畑」や「牛」や「嫁」のせいにしながら、自分自身がどうでもよいと思っていたのではないでしょうか。所詮は「他人の祝い事」。余計なことに自分を巻き込み、生活を乱してほしくないと思ったのではないでしょうか。
その招待客は、イスラエルのことを表しています。彼らはまず神様の言葉と啓示を与えられ、神の民として選ばれたのに、いざイエス様が現れ「時が満ち、神の国は近づいた(マルコ1:15)」と招かれると、関心を示さないばかりか、ますます拒絶の色を濃くしていき、ついには十字架につけてしまうのです。そのことを預言してイエス様は「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい」と言われます。これはイスラエルの中の社会的および宗教的に見捨てられていた人たちです。また、それでも席に空きがあるので、今度は「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」と言われました。これは異邦人(ユダヤ人以外の人々)のことです。「無理にでも」とは「強制して」という意味ではなくて「熱心に」という意味です。
私たちも今、この「盛大な祝宴(神の国)」に、熱心に招かれています。その熱心は「神ご自身の熱心」です。あなたはどんな理由によって、その招待を辞退しようとしていますか?もしくは返事を曖昧にして、先延ばしにしていませんか?その理由は「仕事」ですか「家庭」ですか「忙しさ」ですか?それが本当に、神様ご自身の招きよりも重要なことでしょうか?またクリスチャンであっても「自分の生活が乱されない程度」に参加しよう思っていないでしょうか?「それ以上は巻き込んで欲しくない」「自分のペースは崩したくない」と思っていないでしょうか?神の国の祝宴に参加するとは「神の国とその義とを第一にする(マタイ6:33)」という生活の変化を伴います。参加しているようで、じつは無気力や無関心、冷淡によって、神様を悲しませていないでしょうか?
冷淡な私でさえも、
招き続けて下さる
あなたの愛と熱心に感謝します。
私もあなたの熱意に
応えることができますように。
『街道や垣根のところに出かけて行って、
この家がいっぱいになるように、
この家がいっぱいになるように、
無理にでも人々を連れて来なさい。』
ルカ14章23節
わたしは、反逆の民、
自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、
一日中、わたしの手を差し伸べた。
イザヤ65章2節