2013年8月1日木曜日

その8 「憐れみ深いサマリヤ人~中編」 ルカ10章30-35節

前回、律法の専門家はイエス様に「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と質問しました。新共同訳聖書には「彼は自分を正当化しようとして」そう質問したとあります。彼の中には既に答えが用意されていました。「『隣人をあなた自身のように愛せよ』との戒めは、レビ記に書かれている。それによれば、隣人とは『同胞のユダヤ人』のことだし、『律法を守っている人々』のことだ。私はそういう人だったら愛しているよ!だから私は正しのです!!」おかしな理屈です。聖書には「隣人を愛しなさい」とあるのに、彼は屁理屈によって「愛さなくてもよい隣人」をつくり上げてしまっていたのです。そんな彼に語られたのが「憐れみ深いサマリヤ人」でした。

たとえ話の、場面設定は「エルサレムからエリコに下る道」でした。この道は、地図で見ると、かなり急斜面です。しかも強盗がよく出ることから「血の道」と呼ばれていました。その手口は、とても残忍で、人の善意を欺(あざむ)くものでした。自分たちの仲間に、動物の血で塗りたくり、道の真ん中の寝せておくのです。そして善意から、心配して「大丈夫ですかぁ」と近づいてくる人があるでしょう。すると、いっせいに仲間が出てきて、何もかも奪い去ってしまう。しかも口封じのために、相手を半殺しにする徹底ぶり。それが当時、恐れられた強盗の手口でした。そんな危険いっぱいの道でしたが、他に道があるわけでもなく、人々は仕方がなくその道を通らなくてはいけませんでした。イエス様のたとえ話はこう続きます。「(その日も)ある人が…強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。(30)」聞く人々は、背後にある事情をよく理解していたことでしょう。そこに、二人の人が通りかかりました。「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(31-32)」

祭司とレビ人は、当時の宗教家です。そもそも場所は「エルサレムからエリコに下る道」でしたが、きっとこの二人はエルサレムにある神殿に行き、そこで礼拝での御用を終えて、家へと帰る途中だったのでしょう。そこで見てしまったのが、血を流して倒れている「その人」でした。もちろん心では、何とかしてあげたいと思ったことでしょう。でも、もし自分が駆け寄ったら、自分も襲われてしまうかもしれないと思いました。面倒に巻き込まれてしまうとも思いました。そう思い出すと「しなければいけないこと」は頭では分かっていても、なかなか体が動きませんでした。そして、ついに、誰も見ていないことを確認すると、道の反対側を通り過ぎて行ってしまったのです。彼らだって心を痛めたはずです。その後、何度もその人の姿を思い出して、罪悪感も覚えたことでしょう。でも結果的には、その人を見捨てたのです。私たちに彼らを非難することはできるでしょうか?そういうことを、私たちも結構しているのではないでしょうか?そのたびに、色々な理由はあるのです。「その時は○○だったから素通りするより仕方がなかった」「そもそも、助けることが必ずしも正しいとは限らなかった」などなど。でも結果的に、その時、私たちもその人を見捨てているのではないでしょうか?祭司とレビ人たちの姿は、私たちの姿でもあります。

そこに、もう一人の人が通りかかりました。彼は「サマリヤ人」でした。「サマリヤ人」とは当時ユダヤ人と大変仲の悪い人々でした。もとは同じイスラエル人だったのに、歴史的および宗教的な理由により犬猿の仲となり、道で会っても、挨拶もしないような関係でした(脚注参照)。でもこのサマリヤ人は、ごく自然に「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。(33-34)」しかも「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』(35)」とまで言うのです。なぜ彼は、そこまでしたのでしょうか?理由はただひとつ「彼を見てかわいそうに思った」からです。律法の専門家は、屁理屈をこねて「愛さなくても良い隣人」をつくり上げていました。祭司やレビ人も、色々な理由をつけて、見て見ぬ振りをしました。でも、このサマリヤ人は「彼を見てかわいそうに思い」ごく自然に、やるべきことを行動に移すことができたのです。どんなに理屈で塗り固めた「正しい」信仰をもっても、「困った人を見て、かわいそうに思う」「当然の憐みの心」を失っては何にもならないのです。そんな当たり前のことを、イエス様は、教えておられます。

愛とは、困った人に近寄って、面倒に巻き込まれ、損をすること。しかもそれを、損とも思わないこと。



たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、
彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。(31)
ところがあるサマリヤ人 は、彼を見てかわいそうに思い、
…介抱してやった。(33-34)







<サマリヤ人とは>
ダビデの時代にイスラエル王国は確立したが、その後、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂してしまう。サマリヤは北イスラエル王国の首都。その後、まず北イスラエルはアッシリヤによって、後に南ユダもバビロンによって滅ぼされてしまう。特に先に滅ぼされた北イスラエルは、他国の宗教を取り入れ、異邦人と結婚し、南ユダの人々から見れば、もはや同じ民族とは呼びたくない状況になっていた。そうして北イスラエルの人々はサマリヤ人、南ユダの人々はユダヤ人と呼ばれるようになっていく。70年の捕囚の後、南ユダの人々はエルサレムに神殿を再建するが、その際、一緒に再建したいというサマリヤ人の申し出を断ってしまう。そこでサマリヤ人は、エルサレム神殿に対抗してゲリジム山に神殿を築き、モーセ五書だけが正典であるとする独自のサマリヤ教団を立ち上げる。こうしてユダヤ人とサマリヤ人の対立はますます深くなった。こうして彼らは、本来もっとも近い隣人であるはずなのに、もっとも遠い存在となっていたのである。