2014年1月30日木曜日

その21 「ぶどう園で働く労務者」 マタイ20章1-16節

前回は「役に立たないしもべ」というたとえ話から教えられました。そのしもべは、文字通り「役に立たないしもべ」ではありませんでした。おそらく有能で、多くを任される存在だったのでしょう。普通、そのような有能なしもべは、だんだんと自尊心が肥え太り、「こんなにも頑張っているのだから、もっと感謝を示してほしい」「せめて、他の人とは差を設けて扱って欲しい」と願うものです。しかしイエス様は、そんな時こそ、なすべきことをしたら「『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」と教えられたのです。人は、自分が特別だと思うから、思うように扱かわれないと、不満をいだき、腹が立ったりするのです。でも、自分が何者でもないと自覚するなら、そこから本当の謙遜と、赦す心が生まれるのです。

ちょうど今日読んだデイリーブレッド(デボーションガイド)にも、こんなことが書かれていました。「心理カウンセラーに、どんな相談が最も多いのかと尋ねたことがあります。彼は即座にこう言いました。『多くの問題の根っこにあるものは、“当然こうあるべき”という期待が裏切られたという体験です。この問題にきちんと向き合わないなら、怒りや恨みが心の中で膨らんでいきます。』」今日のたとえ話も、まさしくそのようなテーマを扱っています。ある人々は、朝早くからぶどう園で働きました。しかしある人々は午前9時から、別の人々は昼の12時から、さらに午後3時から働き始める人がいて、最終的には夕方の5時から働き始める人々もいました。そういうこともあるでしょう。しかし問題はその後です。「ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。」

この世の常識で読めば、残酷にも感じます。夕方の5時から働いた者が、目の前で1デナリ受け取った時、朝早くから働いていた者たちは、「おぉ、彼らが1デナリなら、俺たちはいくらもらえるんだろう」と期待したことでしょう。でも結果的には、同じ1デナリでした。当然、彼らは怒りました。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」彼らの怒りは「当然こうあるべき」という「常識」が裏切られたことから来ていました。「到底受け入れることが出来ない」と食いさがったことでしょう。でも主人の常識は、労務者たちの常識とは異なっていました。主人はこう答えます。「友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」

主人は彼らのことを「友よ」と呼ばれました。早朝から働いていた労務者にしてみれば、主人は、たまたまその日、自分たちを雇ってくれた人だったのかもしれません。でも主人としては、彼らのことをよく知っていて、まっさきに声をかけるほど気にかけていた「友」のような存在だったのです。しかし主人は、他の人々のことも同様に愛していました。もし一人でも、うつろな目をして大通りに立っているなら、放っておくことはできず、最後の一人まで声をかけ、もし着いて来るなら、早朝から働いていた者たちと同じだけ支払いたかったのです。それが主人としての「こうあるべき基準」でした。でも朝から頑張った人には、ねたましく思えました。この主人はイエス様のこと。朝早くから働いていた労務者はユダヤ人。その他の者は私たち異邦人のことです。イエスキリストが再び来られる時、ぶどう園で働く全ての者に1デナリが支払われるのです。

1デナリとは何でしょう。それは「永遠のいのち」です。ある人は早い時期に救われ、教会という「地上のぶどう園」で、青春を捧げ、色々な奉仕に励むのかもしれません。でもある人々は、人生の秋や冬にイエス様に出会い、ようやくその喜びを知るのかもしれません。そしてみんな最後は「永遠のいのち」を受け、同じ「完成されたぶどう園(天の御国)」に入れられるのです。不公平などと思わないでください。少しでも長く、イエス様のために働けたら、それ自体が最高の報いではありませんか!「永遠のいのち」は、働きに対する「対価」ではなく「一方的な恵み」なのです。 

あなたの恵みは、当惑するほど気前がよく、すべての人に開かれている。



それとも、私が気前がいいので、
あなたの目には
ねたましく思われるのですか。
マタイ20章15節

神には、えこひいきなどは
ないからです。
ローマ2章11節


ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。
ローマ3章24節


2014年1月23日木曜日

その20 「役に立たないしもべ」 ルカ17章1-10節

前回は「7度を70倍するまで赦しなさい」というイエス様の言葉から教えられました。その根拠として、イエス様は「多くの負債を免除されたしもべ」のたとえ話を通し「私たち自身が、多くを赦された者だから」と教えて下さいました。そして最後に、このようにまとめました。「相手が謝って来たからではない。赦された者として、自ら進んで赦すことが大切なのです。」ある方は、この結論を聞き、何か、ふに落ちないものを感じたかもしれません。悔い改めない人を赦すなんて、相手の思うつぼではないか?私たちの救いにだって「悔い改めが必要なのに…」と。

今日の箇所では、より明確に、赦しの条件として「悔い改め」があげられています。まずイエス様は「つまずきを起こさせる者はわざわいだ」と仰せられます。その表現は非常に強く「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」とまで言っています。そうして「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい」と仰せられたのです。つまりイエス様の言われる「つまずきを起こさせる者」とは、兄弟姉妹が罪を犯す場合、それを決して赦そうとせず、罰を与え、徹底的に排除し、回復の機会を与えない人々のことを言うのです。パリサイ的な信仰が幅を利かせ、あわれみのない時代にあって、イエス様はむしろ赦しを大切にして言われました。「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

それを聞いて、使徒たちは「私たちに信仰を増して下さい」と言いました。「使徒」と呼ばれていることに、まず注目したいと思います。通常、福音書において彼らは「弟子」と呼ばれています。しかし、イエス様の十字架の死と復活、そして昇天後、彼らが初代教会のリーダーとなっていく時、初めて「使徒」と呼ばれるようになります。でもここで、先取りして「使徒」と呼ばれているのは、「これからあなた方が派遣される教会においては、そういうことがたくさん起こりますよ」という暗示だとも考えられます。つまり、何度赦しても、同じ間違いを犯す、そういう弱い人々を、あなた方はこれから、柔和な心で導かなければなりませんと言われているのです。でも、それはとても骨の折れることです。ですから弟子たちは「私たちに信仰を増して下さい」と言ったのです。しかしイエス様は、大切なのは、信仰の「多少」ではなく、信仰の「質」だと言われました。もし本物の信仰が「からし種」ほどあれば十分だ、と。では、本物の信仰とは何でしょう?

そこで登場するのが「役に立たないしもべ」のたとえ話です。彼は文字通り「役に立たないしもべ」ではありませんでした。おそらく非常に有能で、多くを任され、頼られる存在だったのでしょう。普通、そのような有能なしもべは、だんだんと自尊心が肥え太ってきて、「こんなにもやっているのだから、もっとねぎらって欲しい」「もっと報酬をはずんでも良いのではないか」と思うものです。しかし、このたとえ話のしもべは、多くの仕事をこなしながらも「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言える、謙遜さをもっていました。そしてこの謙遜さこそが「赦しの秘訣」だと、イエス様は、弟子たちと、私たちに、教えておられるのです。

正しすぎると人を赦せなくなります。パリサイ人たちは旧約聖書の「律法」という物差しで見れば正しい人たちでした。でも彼らの行いは、神様への純粋な愛から生まれたものではありませんでした。もしそうであれば「主のしもべとして当然のことです」と言えたでしょう。しかし彼らは「私たちだってこんなに頑張っているんだから」と、自分の正義を主張し、相手の「悔い改め」に対するハードルをどんどん上げ、その基準に満たない人をなかなか赦そうとしなかったのです。

確かに「悔い改め」は大切です。でもそれは相手が這い上がってくるまで、ふんぞり返って待っていれば良いというものではありません。放蕩息子のお父さんはどうでしたか?放蕩薄子に自ら駆け寄ったではありませんか。イエス様はどうでしたか?私たちの「悔い改め」を待ちつつ、私たちが悔い改める前に、十字架にかかってくださったではありませんか。イエス様こそが、もっとも謙遜なしもべになり、私たちに仕えて下さったのです。もし罪を犯す人があれば、私たちも同じように、相手が悔い改めることができるように、私たちの側から働きかけることはできないでしょうか?あなたの正しさが、あなたを傲慢にしてしまうことのありませんように。もし人を赦すなら、それは十字架の恵みによって赦された者として「なすべきことをしただけ」なのです。

間違った信仰は、多ければ多いほど人を傲慢にします。でも本当の信仰は、わずかでも人を謙遜にします。



かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、
『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、
赦してやりなさい。ルカ17章4節

あなたがたもそのとおりです。
自分に言いつけられたことをみなしてしまったら、
『私たちは役に立たないしもべです。
なすべきことをしただけです』と言いなさい。」ルカ17章10節




食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。
むろん、食卓に着く人でしょう。
しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
ルカ22章27節


2014年1月15日水曜日

その19 「七度を七十倍するまで」 マタイ18章21-35節

2014年初めての聖書研究会です。いきなり昨年のテレビの話で恐縮ですが、昨年はやったドラマに「半沢直樹」があります。私自身は見ていませんが、たいそう話題になり、決め台詞の「倍返しだ!」は流行語にもなりました。しかし、今日学ぶイエス様のたとえ話の中の決め台詞は「七度を七十倍するまで赦しなさい」です。いったいその背後には、どんな意味があるのでしょうか?

このたとえ話も「対話」から生まれています。相手はペテロです。彼は言いました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」なぜ彼がこんな質問をしたのか具体的なことは分かりません。ただ「兄弟が私に対して罪を犯した場合」とあることから、原因は相手にあり、問題は「私とあなたの間の事柄」であることが分かります。これは大切なことです。直前の15節においては「もしあなたの兄弟が罪を犯した場合」とあります。こちらは一般的な罪、つまり、放っておくと、本人だけでなく、周りの人にも害やつまずきを与え、教会に悪影響を与え、主の栄光のためにならない場合のことを言っています。その場合は、赦すか赦さないかだけではなく、これ以上、害を拡大させないための対策が必要となります。

ペテロは、相手が自分に対して罪を犯した場合「何度まで赦すべきでしょうか?」と聞いているのです。その直後に、彼は「七度まででしょうか?」と言っていますが、当時のラビ(律法の教師)の一般的な教えは「三度までは赦しなさい。それ以上は赦さなくても良い」というものでした。その時代にあって、ペテロは聖書の完全数である「7」を、自分なりの基準として問いかけているのです。きっと、こう聞きながら、自分の基準の高さを、イエス様や周りの弟子たちに誇る思いもあったでしょう。しかしイエス様の答えは更に上をいっていました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」つまり、何度までという条件を設けないで、「無限大に」「そもそも数えること自体やめて」「とことん赦しなさい」と言われたのです。

その直後にイエス様は、二人の借金を抱えている人の、たとえ話をされました。一人は王様のしもべです。彼は王様に1万タラントの借金をしていました。タラントの話しは以前もしましたが、1デナリが当時の日当で約1万円。1タラントは6千デナリ。つまり単純計算で1万タラントは6千億円です。彼はそんな途方もない借金(負いめ)を王に対して負っていたのです。当然返せるはずもなく、彼は「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と泣きつきました。すると王様は、かわいそうに思い、彼を赦して、借金を免除してあげたのです。その帰り道、彼は同じしもべで、彼に百デナリ(百万円)の借金がある仲間に出会いました。すると彼は「首を絞めて『借金を返せ』と言い、相手がひれ伏して『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んでも、聞く耳を持たず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた」のです。

もう一度言いますが、彼らは同じ「しもべ仲間」であり、彼は赦された直後でした。その非情な振る舞いに、心を痛めた別の仲間が王様に一部市場を報告しました。すると王様は、激しく怒り、こう言いました。「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」この王様は天の父なる神様、そしてしもべは私たち人間を表しています。また、このたとえ話には登場はしていませんが「もう一人しもべ」がいることも忘れはいけません。それは、語り手であるイエス様本人です。王様は1万タラントの借金をチャラにされたのではなく、王のひとり子が、自分の身分を捨て、しもべの仲間(友)となり、すべての借金をその身に負ってくださったのです。

私たちは赦された者として、赦す者となっているでしょうか?イエス様は、私たちの罪という負債をその身に負い、十字架にかかり、死と滅びの淵から、私たちを贖(あがな)ってくださいました。それなのに私たちは、自分が赦された事を棚に上げて、他人を責める者、赦さない者、訴える者となっていないでしょうか?しかも本来、愛し合うべき仲間を憎み続けていることはないでしょうか?自分の力で「赦そう」と思うのではなく、まず神様が自分を赦して下さったことと、その背後には、イエス様の十字架の犠牲があることを忘れないことが大切なのです。

相手が謝って来たからではない、赦された者として、自ら進んで赦すことが大切なのです。



「七度まで、などとはわたしは言いません。
七度を七十倍するまでと言います。」
マタイ18章22節



「私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
マタイ6章12節 

「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカ23章34節