ちょうど今日読んだデイリーブレッド(デボーションガイド)にも、こんなことが書かれていました。「心理カウンセラーに、どんな相談が最も多いのかと尋ねたことがあります。彼は即座にこう言いました。『多くの問題の根っこにあるものは、“当然こうあるべき”という期待が裏切られたという体験です。この問題にきちんと向き合わないなら、怒りや恨みが心の中で膨らんでいきます。』」今日のたとえ話も、まさしくそのようなテーマを扱っています。ある人々は、朝早くからぶどう園で働きました。しかしある人々は午前9時から、別の人々は昼の12時から、さらに午後3時から働き始める人がいて、最終的には夕方の5時から働き始める人々もいました。そういうこともあるでしょう。しかし問題はその後です。「ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。」
この世の常識で読めば、残酷にも感じます。夕方の5時から働いた者が、目の前で1デナリ受け取った時、朝早くから働いていた者たちは、「おぉ、彼らが1デナリなら、俺たちはいくらもらえるんだろう」と期待したことでしょう。でも結果的には、同じ1デナリでした。当然、彼らは怒りました。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」彼らの怒りは「当然こうあるべき」という「常識」が裏切られたことから来ていました。「到底受け入れることが出来ない」と食いさがったことでしょう。でも主人の常識は、労務者たちの常識とは異なっていました。主人はこう答えます。「友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」
主人は彼らのことを「友よ」と呼ばれました。早朝から働いていた労務者にしてみれば、主人は、たまたまその日、自分たちを雇ってくれた人だったのかもしれません。でも主人としては、彼らのことをよく知っていて、まっさきに声をかけるほど気にかけていた「友」のような存在だったのです。しかし主人は、他の人々のことも同様に愛していました。もし一人でも、うつろな目をして大通りに立っているなら、放っておくことはできず、最後の一人まで声をかけ、もし着いて来るなら、早朝から働いていた者たちと同じだけ支払いたかったのです。それが主人としての「こうあるべき基準」でした。でも朝から頑張った人には、ねたましく思えました。この主人はイエス様のこと。朝早くから働いていた労務者はユダヤ人。その他の者は私たち異邦人のことです。イエスキリストが再び来られる時、ぶどう園で働く全ての者に1デナリが支払われるのです。
1デナリとは何でしょう。それは「永遠のいのち」です。ある人は早い時期に救われ、教会という「地上のぶどう園」で、青春を捧げ、色々な奉仕に励むのかもしれません。でもある人々は、人生の秋や冬にイエス様に出会い、ようやくその喜びを知るのかもしれません。そしてみんな最後は「永遠のいのち」を受け、同じ「完成されたぶどう園(天の御国)」に入れられるのです。不公平などと思わないでください。少しでも長く、イエス様のために働けたら、それ自体が最高の報いではありませんか!「永遠のいのち」は、働きに対する「対価」ではなく「一方的な恵み」なのです。
それとも、私が気前がいいので、
あなたの目には
ねたましく思われるのですか。
マタイ20章15節
神には、えこひいきなどは
ないからです。
ローマ2章11節
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。
ローマ3章24節
ローマ3章24節