2013年9月26日木曜日

その10 「愚かな金持ち」 ルカ12章13-21節

今回は「愚かな金持ち」というたとえ話です。旧約聖書にも「愚かな金持ち」は登場します。ナバルという名の資産家です。ダビデは以前、彼の家畜を守っていましたが、その後サウルに命を狙われ、部下約600人とともに逃亡生活を強いられていました。そんな中、ダビデは部下を遣わし「少し食べ物を分けてください」とお願いしました。しかしナバルは「ダビデとは何者か、このごろは主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」とダビデを侮辱し、部下を追い返してしまいました(Ⅰサム25章)。今日の話を聞いたユダヤ人は、きっとその出来事も思い出したでしょう。

「ある金持ちの畑が豊作であった」と今日のたとえ話は始まっています。彼は心の中でこう考えました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」ちなみにギリシャ語では、取り壊す倉も、新しい倉も「複数形」で書かれています。つまり、すでに多くの財産を持ちながら、さらに多く蓄えるために、もっと大きな倉を作ろうとしているのです。そしてこう言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」彼には、あのナバルと同じように「分け与える」という発想がありませんでした。ただ自分のためだけにたくわえ、自分だけが安心し、食べて飲んで、これから先の人生も、楽しく、幸せに暮らせればいいと考えていたのです。しかしそんな彼に、神様はこう言われます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」彼は、確かに、かしこく財産を蓄えました。でも「死んだ後の事」はまったく考えていなかったのです。それが彼の「愚かさ」でした。最後にイエス様はこう言われました。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」別の箇所で、イエス様は、「貧しい人に『分け与える』ことは、天に宝を積むことである」と教えられました(ルカ18:22)。このたとえ話の中心的テーマは「神の前での本当の富(宝)」なのです。

でも果たしてそれだけでしょうか?「自分の持っているものを、貧しい人にも分け与えなさい」だけでしたら、イエス様でなくても、他の宗教家だって、宗教を必要としない人だって教えています。イエス様は、道徳以上のことを私たちに語っておられます。その「奥義」を読みとるためには「なぜ」「誰に」このたとえ話が語られているのかを、読みとる必要があります。このたとえ話の直前、ある人がイエス様に「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」とお願いに来ました。当時、律法(聖書)の教師に、生活上の相談をすることはよくありました。しかしイエス様はこう答えられました。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」いささか冷たいようですが、イエス様はその人のお願いをきっぱり断られました。それは、その人の問題の核心を見抜き、もっと大きなことに気付いてほしかったからです。イエス様は、こう続けられました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」イエス様は、その人の問題の核心が「貪欲」であることを見抜いておられました。その問題を解決しない限り、たとえ遺産の問題を解決しても、その人は決して幸せにはなれないことを知っておられたのです。

彼らに共通しているのは「貪欲」でした。聖書にはこうあります。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロ3:5)」遺産相続で困っていた人は「この問題さえ解決し、お金が転がり込んで来たら自分はもっと幸せになれる」と信じ、愚かな金持ちは「財産をもっと蓄えられたら、安心して、楽しめる」と信じていました。彼らはともに「お金が自分を幸せにしてくれる」と信じていたのです。もし私たちが「○○だったら幸せになれるのに」「それさえあれば大丈夫!」「それがないと私は絶対に幸せになれない」など、お金でも、異性でも、立ち場でも、何かに執着し、それを絶対化してしまうなら、それが私たちの偶像なのです。神様よりも、神様の与えてくださるものを愛してはいけません。本当の意味で、私たちを幸せに導き、生きる希望と喜び(永遠のいのち)で満たしてくださるのは、主イエス・キリストなのです。イエス様は、彼にも、この本当の喜び(宝)を発見し、新しい人生をスタートしてほしかったのです!


ウェストミンスター小教理問答
問1.「人の主な目的は何であるか?」
答1.「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである」


このキリストのうちに、
知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
コロサイ2章3節









2013年9月12日木曜日

その9 「憐れみ深いサマリヤ人~後編」 ルカ10章25-37節

前回は、たとえ話本文から教えられました。ある人が強盗に襲われ、道に倒れていました。そこに二人の祭司とレビ人が通りかかりました。当時の宗教的指導者たちで、いままさに、エルサレム神殿での奉仕を終えて、帰宅を急いでいました。そんな彼らが、倒れている男を見た時、もちろん、何とかしてあげたいと思ったでしょう。でも結局、面倒に巻き込まれたくないという気持ちの方が勝り、誰も見ていないことを確認すると、道の反対側を通り過ぎて行ってしまったのです。私たちに彼らを非難することはできるでしょうか?私たちも、結構、同じようなことをしているのではないでしょうか?その度に理由はあります。「その時は○○だったから素通りするより仕方がなかった」「そもそも助けることが、相手のためになるとは限らなかった」など。でも結果的に、私たちもその人を見捨てているのです?愛とは、困った人に近寄って、面倒に巻き込まれ、損をすることです。しかもそれを、損とも思わないことなのです。今日はその続きです。

「おなたも行って同じようにしなさい。」イエス様は、最後にこう言われました。そもそも、このたとえ話は、律法の専門家の「では、私の隣人とは、誰のことですか?」との問いかけによって始まりました。以前も話しましたが、この律法の専門家は、その問いに対する「正しい答え」を、自分なりに用意していました。それは「同胞のユダヤ人で、律法を守る者こそが『私の隣人』で、愛すべき対象です。でも、それ以外の者は、愛さなくても良い」という考えでした。でもイエス様は、そんな彼に「あなたは議論ばかりをして、本質を見失っている。あなたは最も大切なことを忘れている。本来の信仰とは、目の前に倒れた人がいたら、単純にかわいそうだと思い、その気持ちを、すぐに行動に移す事だ」と教えておられるのです。イエス様のお気持ちは、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか?(36)」との問いの中にも現れています。もちろん「かわいそうに思って、その人に憐みをかけてあげた人」なのです。他の聖書の箇所にもこうある通りです。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:26-27)」でも大切なことは、それだけではありません。

イエス様の教えは、困っている人を助けなさい、という道徳以上のものです。このたとえ話は「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか(25)」という律法の専門家の質問にも、答えていることも忘れてはいけません。もしイエス様の教えが、単に困っている人を助けなさい、という道徳であるならば、結局のところ「何か良いことをしたら永遠のいのちを受け取ることができる」という、律法の専門家の考え方に賛成しているのではないでしょうか?そういう考え方のことを、律法主義といいますが、イエス様は聖書の中で、この律法主義に対し、NOを突き付けておられます。なぜなら、それは神様を必要とせず、自分の力で自分を救おうとする、自分を神とする偶像崇拝だからです。人間の罪は「あなたは神のようになる(創世記3:5)」というサタンの誘惑に負けることから始まりました。聖書にもこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)」これこそ、この話の、もう一つのメッセージです。

本当に大切なことは、このたとえ話の表面的な意味の奥に隠されている「奥義」に気付くことです。だからといって、表面的な意味は重要でない、と言っているのではありません。「あなたも行って同じようにしなさい。」このメッセージを真摯に受け止め、知らんふりを止め、困っている人々に寄り添うことは大切です。しかし、必ず限界があります。真剣に受け止めるほど、私たちは自分の中にも、あのレビ人や祭司が宿っていることを発見するのです。その時私たちは気づきます。実は自分こそが、瀕死の状態で倒れている者であり、助けを必要としているという現実を。そして自分は、人を救えないばかりか、自分さえも救うことのできない罪人なのだということに気付くのです。憐れみ深いサマリヤ人は、イエス様のことです。イエス様は、倒れている私たちに憐れみをかけ、駆け寄り、十字架にかかり、救ってくださいました。このように愛された者として、その愛を周りの人々に少しずつお返しして行くのが、私たちの、残された人生の、使命なのです。

愛することによって、愛のなさが分かる。愛のなさが分かると、永遠の愛が分かり始める。



しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を
明らかにしておられます。
ローマ5章8節