2013年12月12日木曜日

その18 「羊と山羊」 マタイ25章31-46節

マタイ福音書25章の、三つのたとえ話から教えられています。第一に「十人のおとめ」、第二に「タラント」、第三に「羊と山羊」のたとえ話です。共通しているのは「再臨」のテーマです。

イエス様が再臨されて、すべての国々の民が、その御前に集められる時のこと。「彼(イエス様)は、羊飼いのように、羊を自分の右に、山羊を左により分ける」というのです。当時、羊と山羊を飼う時、昼間は羊も山羊も一緒に放牧されていました。しかし夕方になると、羊飼いは、羊と山羊を分けて、小屋に入れるのです。それと同じように、一方を右に、一方を左に…というのです。ちなみに、聖書で羊はよく神の民を象徴し、山羊は悪人を象徴します(ダニエル8:5-8)。ここでも大切なのは、その日まで、羊も山羊も同じように過ごしているということです。その違いが明らかにされるのは、イエス様の再臨の時です。逆にいえば、その日まで私たちが早まって、決めつけてしまってはいけない。人を裁くのは、人の領域ではない、ということではないでしょうか。

ではイエス様は、どのような基準で羊と山羊を分けられるのでしょうか?王(イエス様)は、右にいる者たちにはこう言います。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」反対の左にいる者たちにはこう言います。「おまえたちは、(上に書いたようなことを)してくれなかった。」つまりその違いは、困っていたり、助けを必要としていたりする人を前にして、どう行動したか(しなかったか)なのです。

それを聞いて、右の羊に分けられた人はこう言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」それに対して王は答えました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」彼にとって、困った人を助けることは、呼吸をするように当然のことでした。ですから「ありがとう」と感謝されても、「いったい何のことですか」となったのです。逆にいえば、山羊の人々は、自分と利害関係のありそうな人のためには、抜け目なく行っていたのかもしれません。だからこそ、王に「してくれなかった」と言われて「そんなはずはない」となったのではないでしょうか?

良い行いや、信仰にさえ、自己中心が入り込んで来る時があります。聖書の中にはこうあります。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。(6:3)」何もしないのは間違っています。しかし自分の利益のために、形だけでも、人に親切にしたり、宗教的によい事をしたりすればよいというのではありません。そう考えると、問題は「行い」そのものではなく、むしろ「心」にあると言えます。しかも心だけでもなく、その心が、自分の「生き方」と一致していることが大切なのです。あなたの良い行いは、本当に、神様のため、隣人のためでしょうか?それとも自分が感謝されるためでしょうか?自分のしたことを、指折り数えることはやめなさい。数えるから、悔しくなったり、バカらしくなったりするのです。むしろ「当然のことをなしたまでです」と思いなさい。呼吸をして誰かに褒められますか?いいえ、健康であれば当然のことです。神と人への奉仕も、一方的な恵みによって救われ、癒された者にとっては当然のことではありませんか。あなたの愛の実践や神への奉仕は、それぐらい自然な「生き方」になっていますか?

とはいえ、人間はそこまで立派な生き物でもありません。完全に私利私欲を捨てることができるのは、この世の人生を終える時でしょう。私たちは、実に呼吸をするように、自分のことしか考えられないのです。そんな私たちが、できもしない背伸びをして、いっさいの見返りを求めず、善行と奉仕に励むらな、まもなく息切れをして、すべてを放り投げてしまいたくなってしまうでしょう。今日のイエス様のお言葉は、そんな私たちにも向けられています。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」「大丈夫!覚えられているよ。あなたの良い行いは、どんな小さなことでも、天にて数えられているよ。」そうイエス様は、私たちが、神と人とを愛することを励まして下さっているのです。

今日も、名もないイエスと出会っているかもしれない。その時、あなたは、どんな顔をして、どんな声をかけましたか?



『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです。』
マタイ25章40節

兄弟愛をいつも持っていなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。
こうして、ある人々は御使いたちを、
それとは知らずにもてなしました。
ヘブル13章1-2節 

あなたは、施しをするとき、
右の手のしていることを
左の手に知られないようにしなさい。
マタイ6章3節




2013年12月5日木曜日

その17 「タラント」 マタイ25章14-30節

前回は「十人のおとめ」のたとえ話から教えられました。「五人は愚かで、五人は賢かった」とありますが、その違いは目に見えないところにありました。十人全員、携帯用ランプを持ち、火をともして、花婿の到来を待っていましたが、5人は油壺の中に、予備の油を満たし持っていたが、他方は持っていなかったのです。「ともし火」は、外面的な信仰のことを意味し、「油」は内面的な信仰生活のことを指しています。その違いは「花婿の到来(主の再臨)」によって明らかになります。今日の「タラント」のたとえ話も、「再臨」というテーマにおいて繋がっています。

「タラント」とは何でしょうか?これは英語の「タレント」の語源にもなっている言葉です。タレントとは、日本語でいれば「芸能人」でしょう。テレビや映画に登場する、一芸に秀でた人のことです。タラントも基本的に同じ意味です。でも聖書におけるタラントと、世間一般に使われているタレントとの間には、微妙なニュアンスの違いもあります。世間一般で言うタレントは、いわゆる生まれ持った才能のことであり、それを一生懸命みがいて、上へ昇っていくためのものです。しかし、クリスチャンにとってのタラントは、神様からの一方的な恵みによって与えられた賜物(プレゼント)であり、それを用いて神様の栄光を表し、人に仕え、地上に神の国(主の平和)を広げるためのものなのです。たった一字の違いですが、意味は根本的に違っているのです。

しかも、私たちはそのタラントを「一時的に神様から預かっている」のです。今日のたとえ話はこのように始まっています。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。(14)」「預かっている」ということは、やがて「お返しする時が来る」ということでもあります。誰から預かっているのでしょうか?主人からです。その主人とは、神様のことです。しかも、預ける額が、平等ではありません。「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、それから旅に出かけた。(15)」「なんだ、不平等じゃないか!?」と思うでしょか。でも1タラントだって、約6000デナリです。1デナリは当時の日当でしたから、単純に1万円としても、6000万円になります。ちなみに、2タラントは1億2000万円、5タラントは3億円です。比べてしまうと「これぽっち…」と思うかもしれませんが、1タラントだって、決して少ない額ではありません。

また主人が「能力に応じて」と言っていることにも注目したいと思います。別な箇所には「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。えこひいきしているのではなく、しもべのことをよく知っていて主人は、それぞれに「耐えられる分(活用できる分)」を任せて下さっているのです。そこにあるのは、主人(神様)の愛です。実際に5タラント預かったものは、その能力を活かして、さらに5タラントもうけました。2タラント預かったものも、さらに2タラントもうけます。1タラント預かったものも、もし自分の能力をフルに活かせば、主人が帰って来るまでに、もう1タラントもうけることは可能だったのです。しかし彼はそうしませんでした。主人がいなくなると、すぐに出て行って「地を掘って、その主人の金を隠した(18)」のです。しかも主人が帰って来た時、彼は言い訳をして、こう言いました。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。(24-25)」何もしなかった自分の怠惰を、すべて主人(神様)のせいにしているのです(箴16:13)。彼は主人(神様)の愛が、何も分かっていませんでした。

私たちはどうでしょうか?私たちは誰でも、神様から預かっているタラントがあります。周りと比べれば、これっぽっちと思うかもしれませんが、神様から見てちょうど良く、十分に与えられているのです(Ⅱコリ12:9)。感謝して用いる時に、結果はおのずとついて来ます。主人(イエス様)は、いつ帰って来られるか分かりません。その時、私たちが何をしなかったではなく、何をしたかが問われるのです。では、お預かりしているタラントは、どのように用いれば良いのでしょう?文字通りの金儲けではなく「天に宝を蓄える」ことです(マタイ6:20)。自分のすべてを投入し、神と人を愛する。誰も見ていないところでもしっかりする。そうすることによって、私たちは天に宝を蓄えることが出来るのです。十字架の恵みをいただき、永遠のいのちに生かされながらも、自分が救われる(裁かれない)ためだけにしか生きていない人がいます。それが地に宝を埋めておく生き方です。もっと神様の愛に信頼して、自分を神と人のため、大胆に活用してみませんか?

たった一度きりの人生を、何のために用いていますか。
人生そのものが、神様から預かったタラントでもあります。






自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、

わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
ルカ9章24節

すべて、多く与えられた者は多く求められ、
多く任された者は多く要求されます。
ルカ12章48節 

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、

盗人が穴をあけて盗むこともありません。
マタイ6章20節 

なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる」と言う。

箴言26章13節



2013年11月20日水曜日

その16 「10人のおとめ」 マタイ25章1-13節

前回は「盛大な宴会」のたとえ話から学びました。「盛大な宴会」は「神の国」のことを表していました。パリサイ人の一人は、イエス様と一緒に食事をしながら、その言葉に耳を傾け、目の前で病人が癒されるのを見ていました。そして突然ひらめくように分かったのです。イエス様の宣べ伝えておられる神の国が、どのようなものであるかを!神様の力と愛とが、今まさに力強く到来し、新しい時代の幕が上がっている!!彼は感動を抑えきれず「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と叫びました。今日のたとえ話も「神の国」という点で繋がっています。

「天の御国は…十人の娘(おとめ・新共同訳)のようです」と始まっています。「天の御国」というと、私たちは、死んだ後に行く「天国」のことを思い浮かべます。しかし、これは前回お話しした「神の国」と同じ意味です。マタイ福音書は、特にユダヤ人の向けてまとめられたイエスの言行録です。そのユダヤ人は「神様」という言葉があまりにも神聖であるため、むやみに口にせず、別な言い方をしていました。だからマタイ福音書では「神の国」のことを「天の御国」と呼んでいるのです。その天の御国が、花婿を出迎える十人のおとめ(花嫁の友人)にたとえられています。花婿はイエス様のことで、十人のおとめたちは、私たちクリスチャンのことです。その十人のおとめのうち「五人は愚かで、五人は賢かった」とあります。違いはどこにあるのでしょうか?

それは、花婿を待ちわびる態度(心構え)にありました。聖書にはこうあります「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」十人全員、携帯用ランプを持ち、火をともして、花婿の到来を待っていました。でもその違いは、油の壺の中に、油を満たし持っていたかどうかなのです。「ともし火」は、外面的な信仰のことを意味しています。みんなで礼拝し、賛美し、同じように活動しています。それに対して、油壺の中身は普段、目には見えませんし、気にもされません。「油」はそういった内面的な信仰生活のことを指しています。◇思ったよりも、花婿の到来が遅れたので、みんな眠ってしまいました。この花婿の到来は、イエス様の再臨のことです。聖書には、イエス様が十字架にかかり、3日目によみがえられたことだけでなく、やがて再び、この地上に戻って来られ、ご自身が始められた神の国を完成するとも約束されています(マタイ24、黙21、1テサ4)。加藤常昭師は「イエスは、すべての営みに決着をつけられる」と表現しています。

クリスチャンにとって「その日」は喜びであり、私たちは「その日」を待ちわびています。この地上にあっては、信仰のゆえに、誤解されたり、受け入れられなかったり、悲しい思いもするのですが、主が全てを完成してくださるからです。イエス様も「見よ、私はすぐに来る」と約束しておられます(黙22:7)。でも神様の目から見ての「すぐに」と、私たちの思う「すぐに」は違います。聖書にも「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです(Ⅱペテ3:8)」とあります。二千年間クリスチャンは主の再臨を待ちわびていますが、まだ実現はしていません。そこである者は「眠って」しまうのです。信仰を失うわけではありませんが、疲れてしまったり、緊張感を保つことができなかったり…。仕方がないのかもしれません「心は燃えていても、肉体は弱いのです(ルカ14:38)。」今日のたとえ話の中でも、賢い五人も眠ってしまったとあります。そして「その日」は突然やってきます。どんよりした眠気を打ち破るラッパの音のように「そら、花婿だ。迎えに出よ!」との声が響きわたるのです。その時、内面の違いは「明白に」されます。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えました。その時、愚かな娘たちは、賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください」と言いました。賢い娘たちは「いいえ、店に行って、自分のをお買いなさい」と答えました。冷たいようですが、最終的に信仰の世界とは、自分と神様の、一対一の関係なのです。生きている間に、助けることはできますが、その時が来てしまってから助けることはできないのです。聖書の中で、他にも再臨のことが詳しく書かれていますが、特に第一テサロニケ4-5章をお勧めします。再臨を待ち望む生活とは、情欲におぼれず自分を聖く保ち、互いに愛し合い、まじめに働き、落ち着いた生活をすることなのです。むやみに怖がったりせず「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」とも教えられています。それがすなわち「御霊を消さない(油を絶やさない)」賢いおとめの生き方なのです。

油断してはいけません。
当たり前に明日がやって来るとは限りません。
今日という日を大切に、
精一杯生きていますか?

だから、目をさましていなさい。
あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、
知らないからです。マタイ24章42節


2013年11月13日水曜日

その15 「盛大な宴会」 ルカ14章15-24節

 前回は「ぶどうの木」のたとえ話から学びました。イエス様は「お父様。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」と私たちのために執り成していて下さいます。でも私たちの罪は、一年待てばどうにかなるというものでもありません。そこでイエス様は、ついに、自分が木(十字架)にかけられ、切り倒されて下さったのです。
 その後、イエス様は色々なたとえを用いて「神の国(神様の愛と義の回復と、やがて来る完成)」について教えられました。イエス様の教えはますます広がり、パリサイ人たちの反発も強くなりました。

ある食事の席で、ある人が「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう!」と言いました。14章1節を見る時、彼もまたパリサイ派の指導者の家の食事に招かれた客の一人であったことが分かります。おそらく彼自身もパリサイ派だったのでしょう。その席で(つまり彼の目の前で)イエス様は病人を癒されました(2-4)。また直前の13節では「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」と教えられました。きっと彼はそういったイエス様の言葉や行いを見ながら、イエス様の教えている神の国が、どういうものであるかを理解しはじめたのでしょう。神様の力と愛とが、今まさに力強く到来し、あらゆる涙と悲しみがいやされる新しい時代が始まりつつあることを!そこで彼はイエス様と一緒に食事をしながら、感動を抑えきれず「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と叫んだのです。でもだからと言って、イエス様の弟子になる決心をしたわけではありません。教えには感激し、惹かれていましたが、すべてを捨てて、パリサイ派の仲間たちからの冷たい視線に耐えてまで、イエス様について行く覚悟はなく、ましてや神の国を一緒に広げようという決心もありませんでした(使徒5:12-13)。そんな彼を見てイエス様は「盛大な宴会」の話をされました。

たとえ話の中で、盛大な宴会に招待された人は、次々に辞退しはじめました。全ての準備が整い「さぁおいでください」と招かれているのに、招待客たちは直前になって「畑を買ったので」「牛を買ったので」「結婚したので」と断り始めました。口をそろえたように「すみませんが」とは言っているものの、本当に悪いと思っているのでしょうか。結局は「畑」や「牛」や「嫁」のせいにしながら、自分自身がどうでもよいと思っていたのではないでしょうか。所詮は「他人の祝い事」。余計なことに自分を巻き込み、生活を乱してほしくないと思ったのではないでしょうか。

その招待客は、イスラエルのことを表しています。彼らはまず神様の言葉と啓示を与えられ、神の民として選ばれたのに、いざイエス様が現れ「時が満ち、神の国は近づいた(マルコ1:15)」と招かれると、関心を示さないばかりか、ますます拒絶の色を濃くしていき、ついには十字架につけてしまうのです。そのことを預言してイエス様は「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい」と言われます。これはイスラエルの中の社会的および宗教的に見捨てられていた人たちです。また、それでも席に空きがあるので、今度は「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」と言われました。これは異邦人(ユダヤ人以外の人々)のことです。「無理にでも」とは「強制して」という意味ではなくて「熱心に」という意味です。

私たちも今、この「盛大な祝宴(神の国)」に、熱心に招かれています。その熱心は「神ご自身の熱心」です。あなたはどんな理由によって、その招待を辞退しようとしていますか?もしくは返事を曖昧にして、先延ばしにしていませんか?その理由は「仕事」ですか「家庭」ですか「忙しさ」ですか?それが本当に、神様ご自身の招きよりも重要なことでしょうか?またクリスチャンであっても「自分の生活が乱されない程度」に参加しよう思っていないでしょうか?「それ以上は巻き込んで欲しくない」「自分のペースは崩したくない」と思っていないでしょうか?神の国の祝宴に参加するとは「神の国とその義とを第一にする(マタイ6:33)」という生活の変化を伴います。参加しているようで、じつは無気力や無関心、冷淡によって、神様を悲しませていないでしょうか?

冷淡な私でさえも、
招き続けて下さる
あなたの愛と熱心に感謝します。
私もあなたの熱意に
応えることができますように。



『街道や垣根のところに出かけて行って、
この家がいっぱいになるように、
 無理にでも人々を連れて来なさい。』
ルカ14章23節

わたしは、反逆の民、
自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、

一日中、わたしの手を差し伸べた。
イザヤ65章2節


2013年10月30日水曜日

その14 「いちじくの木」 ルカ13章6-9節

前回は「不正な裁判官」のたとえ話を学びました。「不正な」とあるのは、彼が神を恐れず、人を人とも思わない人だったからです。そんな彼のもとに、ひとりのやもめがやってきました。彼女は「私の相手をさばいて、私を守ってください」と訴えました。しかし裁判官はなかなか取り合いませんでした。面倒くさがり、やもめを侮ったのです。でも彼女は諦めず、頼み続けました。すると不正な裁判官は「このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」と重い腰を上げました。これは逆説的なたとえ話です。私たちの神様は、愛に満ち、私たちの祈りを、身を乗り出して聞いてくださるお方です。この世にあっては不条理がありますが、この神様の愛を信じ、失望することなく、祈り続ける者でありたいと思います。

突然ですが、聖書には二種類の忍耐があります。ひとつは神様を信じる「私たちの忍耐」です。前回のたとえ話も、失望しないで、祈り続けることを教えていました。御言葉にもこうあります。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル10:36)」また聖書には、もう一つの忍耐があります。それは「神様の忍耐」です。今日のたとえ話は、そのことについて語っています。イエス様はこう始められました。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。」ある人とは、私たちを造り、地の全面に広げ、生かして下さっている父なる神様のことです。その神様がこう言われます。「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」旧約聖書では、イスラエルのことが度々「ぶどうの木やいちじくの木」にたとえられています(詩篇80:8、エレミヤ2:21、ホセア9:10)。神様はアブラハムという苗木を選び、すべての民を、神様の祝福の木陰に憩わせるために、大きく成長させて下さいました(創世記12:1-3)。

でも実際に、イエス様がこの地上で彼らのうちに見られたのは、それとは真逆の姿でした。今日のたとえ話の直前には、不幸にあった人々のことを聞いて「彼らが罪深いからそうなった」と考えていた人々に、イエス様は「そうではない。あなた方に言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(13:5)」と仰せられました。彼らは、自分達がアブラハムの子孫であるという選民意識に酔いしれ、神様が「神と人とを愛するために与えられた律法」を守りながら、守れない人を心底バカにしていました。そして自分達こそ「異邦人たちより優れ」「正しい」と、うぬぼれていたのです(3:9-10)。神様が、彼らに求めておられた「実」とは「愛、喜び、平安(ガラテヤ5:22-23)」という御霊の実でした。また、以前読んだ、取税人の祈りに見られる「悔い改め」の実でした(18:13)。そういう意味では、彼らの間に、何の実も見られなかったのです。しかも「何のために土地をふさいでいるのか分からない無意味な存在」とまで言われています。これは彼らだけの問題でしょうか?私たちもまた、どこかで人と比べて勝ち誇ってみたり、劣等感に陥ってみたり、あの人よりはましだと思ってみたり、そんな生き方を繰り返してはいないでしょうか?クリスチャンは本来、自分が救われたことに満足するのではなく、すべての民が祝福されるために、恵みの通り良き管となることを望まれているのです。そういう根本的なことを忘れて、自分だけの幸せだけを追い求めているなら、いくら罪を犯さず、間違いを犯していなくても、神様の目から見れば「場所をふさいでいるだけの、無意味な生き方(的外れ・罪)」なのです!

しかしイエス様の愛は、そんな私たちにも注がれています。「ぶどう園の番人」とは、イエス様のことですが、こう言います。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」私たちが切り倒されないように、イエス様は父なる神様に「もう少し待ってください」と執り成していて下さいます。でも私たちの罪は、一年待てばどうにかなるというものでもありません。そこでイエス様は、ついに、自分が木にかけられ、切り倒されて下さったのです。つまり私たちを生かすために、十字架にかかりいのちを投げ出して下さいました。

「場所をふさいでいるだけ」と言われたら、身も蓋もない。
でもそんな私にも注がれる、イエス様の愛に感謝しよう!


神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、
この方にあって、神の義となるためです。
Ⅱコリント5章21節


2013年10月23日水曜日

その13 「不正な裁判官」 ルカ18章1-8節

前回は「パリサイ人と取税人の祈り」から、このように教えられました。「イエス様は、このたとえ話を、自分を義人だと自任し、人を見下す、うぬぼれた人に語られています。恐らくそれは、話しに登場するパリサイ人本人のことであったことでしょう。彼らは、確かに、行いにおいては立派でした。しかし彼らは、神を敬っているようで、自分の力に頼りきっており、そう生きられない人を、心底バカにしていました。聖書のいう罪は、そういう『神を敬わず、人を人とも思わない』心のことをいいます。それに対して取税人は、自分の罪を認め、しかも自分はその罪に対して無力であり、赦して下さる神様の一方的な憐れみにすがるほかないことを知っていました。だから胸を打ちたたいて『神様こんな私をあわれんで下さい』と祈ったのです。結果的に『義』と認められたのは、この取税人の方でした。まさしく『だれでも自分を高くする者は低くされ、神様の前に自分を低くするものは、『義』と認められるからです』と言われている通りなのです。」

今日のたとえ話に登場するのは「不正な裁判官」です。どうして普通に「裁判官の話」ではなく、わざわざ「不正な裁判官」と呼ぶのでしょうか?それはこの裁判官が「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であったからです。では「神を恐れず、人を人とも思わない」とはどういう意味でしょうか?「神を恐れる」とは、分かりやすくいうと「たとえ誰も見ていなくても、目には見えない神様が見ておられることを信じて、正しいことを行うこと」です。また「人を人と思う」とは「人を人として、尊厳をもって扱う」ことです。つまりそれが出来ていなかったこの裁判官は、人が見ていないところで賄賂(わいろ)などをもらい判断をねじ曲げたり、相手が「やもめ」だからと言って「あなどり」、審議や判決においても軽んじていたと考えられます。だから彼は「不正な裁判官」なのです。そもそも裁判官とは「人が人を裁く仕事」であり、神様の代務者のような権力をもっていますから、不正に陥りやすい誘惑があるのかもしれません。だから聖書では「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない(レビ19:15)」と厳しく戒められているのです。

そこに、ひとりのやもめがやってきます。彼女は言いました。「私の相手をさばいて、私を守ってください。」やもめですから、夫を亡くしたのでしょう。もしかしたら、そんな弱みに付け込んで、土地や財産をだまし取ろうとする悪い人がいたのかもしれません。そこで法律によって自分を守ってくれるよう裁判官にお願いしたのです。しかし、彼はなかなか取り合おうとしませんでした。面倒な割に、お金になりそうになかったので、無視していたのでしょうか。でも彼女は諦めず、頼み続けました。すると不正な裁判官も、さすがに「このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」と、重い腰を上げたのです。イエス様はこう話されて後、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい」、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と言われました。「選民」とは、イスラエルだと読めないこともありませんが、前後の文脈より「イエスの弟子・クリスチャン」のことでしょう。イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネ15:16)」とも仰せられました。イエス様は、その私たちを「決して放っておかれない!」のです。

この世は不条理だらけです。悪者の不正が暴かれず、正しい者が損をすることがよくあります。選民であるクリスチャンも例外ではありません。信仰を持つがゆえの、不条理な体験というものもあるでしょう。イエス様は「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と仰せられました。これは直前の17章25-30節を受けての言葉ですが、人の子とは、人としてお生まれになった、神のひとり子イエス様のことです。このイエス様は既に来られましたし、もう一度来られると約束されています。神様の正しい裁きは、この再臨の時に完成するのですが、今の時代はまだその途上にあるのです。イエス様は別な箇所で「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい(ヨハネ16:33)」と仰せられました。そうです。あのやもめのように、ちょっとやそっと不条理な扱いを受けたからといって、いじけず、へこたれず、失望することなく、ますます神により頼む(祈る)者となりなさいと教えられているのです。なぜなら私たちの神様は、私たちのことを誰よりも愛し「決して放っておかれない方」だからです。

失望せずに祈り続けなさい。暗いトンネルの向こうには、
思いもよらない答えと、神様との新しい出会いが待っているから。



あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

ヘブル10章36節




2013年10月10日木曜日

その12 「パリサイ人と取税人」 ルカ18章9-14

前回は「上座と末席」のたとえ話について、このように学びました。「つまり神座(かみざ)にすわるのをやめなさい、ということです。生まれながらの私達は、神様が座るべき心の王座に座り、『これは私の人生だから、私の好きなようにする』と言うのです。クリスチャンも例外ではありません、口先では神様を敬いながら、結局は自分の力で生き、自分の力で自分を救おうとしているのです。そういう生き方を捨てて、自分は末席に退き、自分の罪ために十字架にかかってくださったイエス様を『心の王座(神座)』にお迎えする時、神様は私達を高く引き上げ、神の子どもの席に案内して下さるのです。最後にこうある通りです。『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです』。最後の部分は今日の箇所と全く同じです!

登場人物は二人、パリサイ人と取税人です。彼らはそれぞれ「義人(正しい人)」と「罪人(つみびと)」の代表のような存在です。以前にも説明しましたが、パリサイ人は旧約聖書に書いてある律法(宗教生活上のおきて)を厳格に守る人であり、他の人々もちゃんと守っているかチェックする人々でした。イエス様は、今日のたとえ話を「自分を義人だと自任し(「うぬぼれ」新共同訳)、他の人々を見下している者たちに対して」語られましたが、きっとそれは、パリサイ人本人のことであったでしょう。そのパリサイ人はこう祈ります。「神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」確かに立派な行いです。でも、はたして、これが、本当に「祈り」と言えるのでしょうか?彼が見ているのは、「自分の正しい行い」と「そう生きられないダメな人々」だけです。いちおう「神よ」とは呼びかけてはいるものの、人と比較して、結局は自分の優位性をアピールしているかのようです。

もう一方の取税人はどうであったでしょうか?聖書にはこうあります。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」彼は、他のみんなが祈りを捧げている宮には近づこうともしませんでした。近づけなかったのです。人目を気にしていたのではなく、自分みたいな人間は、そういう聖い場所には相応しくないと思ったのです。そして天を仰ぐこともできず、自分の胸を打ちたたいて、ひとこと「神様こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈ったのです。彼は、自分の罪だけを見つめて、嘆いていたのではなく、神様の前に出て、正直に告白し、憐れみを求めました。話し終えたイエス様はこう言われました。「あなたがたに言うが、この人(取税人)が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とてもわかりやすい話しです。でも実際の世の中はそんなに単純でしょうか?世の中には、パリサイ人のように行いが正しくて、謙遜な人もいますし、取税人のように不正を働きながら、なおかつ傲慢な人もいるのです。さらに「私は、あんなパリサイ人のようではないことを感謝します!」と正義感をかざして、逆差別をする人もあるでしょう。イエス様は、このたとえ話を通して、いったい何を教えているのでしょうか?

それは「神様の目から見た本当の義人について」です。このたとえ話は「自分を義人だと自任し、人を見下す、うぬぼれた人」に語られていますが、彼らが本当に「神様の目から見て、義人だったかどうか」は別問題です。彼らは、確かに、行いにおいては素晴らしかったのですが、残念ながら、神様が一番関心を持っておられるのは「心」なのです。パリサイ人たちは、神を敬っているようで、自分の力に頼りきっており、人を見下していました。義人の「義」の字は、イエス様の象徴である「羊」(ヨハネ1:29)と、「我(われ)」という部首によって成り立っています。この場合「羊」が「我」の上に来ていることが大切なのです。しかし、パリサイ人たちは、心の中で、自分を高く上げて、ある意味、神様よりも自分を高くしていたのではないでしょうか?聖書のいう罪は、そういう心の状態のことをいいます。彼らは、義(神様から認められることを)を必死に追い求めながら、その正反対の方向に暴走していたのです。それに対して取税人は、自分の罪を認め、自分はその罪に対して無力であり、赦して下さる神様の一方的な憐れみにすがりました。だから彼らは「義」と認められたのです。まさしく「だれでも自分を高くする者は低くされ、神様の前に自分を低くするものは、『義』と認められるからです」と言われている通りなのです。

本当に大切なのは、何をしているかではなくて、
何を大切に生きているかです。
それがあなたの生き方になるからです。


「神へのいけにえは、砕かれた霊。
 砕かれた、悔いた心。
 神よ。あなたは、それを
 さげすまれません。」
 詩篇51篇17節






2013年10月3日木曜日

その11 「上座と末席」 ルカ14章7-11節

イエスのたとえ話の学びを進めています。お気づきになっている方もあるかもしれませんが、今まで私達が学んできた「いなくなった羊」「なくした銀貨」「失われた息子たち」「憐れみ深いサマリヤ人」「愚かな金持ち」のたとえ話は、すべてルカの福音書に登場しています。そのルカの福音書の最初にはこのように書いてあります。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(1:3)」。つまり、この福音書の直接のあて先は「テオピロ殿」であり、その人物は「尊敬する」「殿(閣下)」とあることから、かなり身分の高い人であることが分かります。ですから、このルカの福音書の中には、特に金持ちや身分の高い人に対する戒めが多く含まれています。

今回のテーマは「上座と末席」です。もともとイエス様は、招かれた人々が上座を選んでいる様子に気付いて、このたとえ話を語られました。彼らはもしかしたら、その直前までイエス様と語っていたパリサイ人たちだったかもしれません。他の箇所でも「(パリサイ人たちは)宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです(マタイ23:6-7)」とイエス様に戒められているからです。そんな彼らにイエス様は「たとえ話」で語られました。「結婚披露宴に招かれた時には上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれていたら、席に着いた後で『この人に席を譲ってください』と言われてしまうかもしれません。そうしたら、あなたは恥をかいて末席に移動しなければならないでしょう。でももし末席に着くなら、招いた人が来て『どうぞもっと上席にお進みください』と言われるかもしれません。そうしたら、みんなの前で面目をたもつことになります。」一見したところ「生活の知恵」のようにも聞こえます。日本人には良く分かるでしょう。「みんなの前で恥をかかないためにはどうしたら良いか」、「傲慢だと思われないためにはどうしたら良いか」という知恵が。

でも、そうだとしたら結局は、上座に座りたいということではないでしょうか?私たち日本人は、自分から上座につくようなことはあまりしません。披露宴に行けば大体、席は決まっていますし、そうでなくても(一応)謙遜は美徳ですから、勧められるまで後ろの方に立っていたりします。しかし、心からそうしているかといえば、そうでもなく「人から○○と思われないため」の生きる知恵だったりします。本当は「もっと自分はこう扱われるべきだ」とか「少なくともあの人よりは上に扱われるべきだ」と思っていたりします。そして期待したように扱われないと、機嫌を損ねて、ふくれっ面をしたり、意固地になって、よけい隅っこの方に座ったりするのです。そういう部分で国籍は関係ありません。イエスの弟子たちもそうでした。彼らは事あるごとに「天の御国ではだれが一番偉いか」論じ合っていました。そんな彼らに、イエス様はある時、小さい子供を真ん中に立たせてこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)」当時の子どもたちは、人数にも入らないくらい「低い」存在でした。でも、だからと言って、ふくれっ面をすることはありませんでした。自分が何者でもないことを知っていたからです。私達も自分は、神様の前に「何者でもない」ことを知り、悔い改め、一方的な恵みを受け入れなければ、天の御国には入ることはできないということなのです。「祝宴(披露宴)」とは「天の御国」のことです。

つまり「神座(かみざ)」にすわるのをやめなさい、ということです。生まれながらの私達は、神様が座るべき心の王座を選び、「これは私の人生だから、ここに私が座り、私の好きなように行き先を決めます」と思う傾向があります。クリスチャンも例外ではありません、パリサイ人のように口先では神様を敬いながら、結局は自分の力で生き、自分の力で自分を救おうとしていることがあるのです。そういう生き方を捨てて、自分は末席に退き、すべてを主にゆだね、自分のために十字架にかかってくださったイエス様を「心の王座(神座・本来神様がお座りになる場所)」にお迎えする時、私達の人生は本当に「祝宴」「神の国」「永遠のいのち」を楽しむことが出来るようになるのです。なぜならその時、神様は私達を高く引き上げ、神の子どもの席に案内して下さるからです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」のです!

人と比べて、上か下かを比べているうちは、人生を楽しめない。
それを止めた時、人生の祝宴が始まる!



主の御前でへりくだりなさい、
そうすれば、
主があなたがたを高くしてくださいます。
ヤコブ4章10節




2013年9月26日木曜日

その10 「愚かな金持ち」 ルカ12章13-21節

今回は「愚かな金持ち」というたとえ話です。旧約聖書にも「愚かな金持ち」は登場します。ナバルという名の資産家です。ダビデは以前、彼の家畜を守っていましたが、その後サウルに命を狙われ、部下約600人とともに逃亡生活を強いられていました。そんな中、ダビデは部下を遣わし「少し食べ物を分けてください」とお願いしました。しかしナバルは「ダビデとは何者か、このごろは主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」とダビデを侮辱し、部下を追い返してしまいました(Ⅰサム25章)。今日の話を聞いたユダヤ人は、きっとその出来事も思い出したでしょう。

「ある金持ちの畑が豊作であった」と今日のたとえ話は始まっています。彼は心の中でこう考えました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」ちなみにギリシャ語では、取り壊す倉も、新しい倉も「複数形」で書かれています。つまり、すでに多くの財産を持ちながら、さらに多く蓄えるために、もっと大きな倉を作ろうとしているのです。そしてこう言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」彼には、あのナバルと同じように「分け与える」という発想がありませんでした。ただ自分のためだけにたくわえ、自分だけが安心し、食べて飲んで、これから先の人生も、楽しく、幸せに暮らせればいいと考えていたのです。しかしそんな彼に、神様はこう言われます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」彼は、確かに、かしこく財産を蓄えました。でも「死んだ後の事」はまったく考えていなかったのです。それが彼の「愚かさ」でした。最後にイエス様はこう言われました。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」別の箇所で、イエス様は、「貧しい人に『分け与える』ことは、天に宝を積むことである」と教えられました(ルカ18:22)。このたとえ話の中心的テーマは「神の前での本当の富(宝)」なのです。

でも果たしてそれだけでしょうか?「自分の持っているものを、貧しい人にも分け与えなさい」だけでしたら、イエス様でなくても、他の宗教家だって、宗教を必要としない人だって教えています。イエス様は、道徳以上のことを私たちに語っておられます。その「奥義」を読みとるためには「なぜ」「誰に」このたとえ話が語られているのかを、読みとる必要があります。このたとえ話の直前、ある人がイエス様に「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」とお願いに来ました。当時、律法(聖書)の教師に、生活上の相談をすることはよくありました。しかしイエス様はこう答えられました。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」いささか冷たいようですが、イエス様はその人のお願いをきっぱり断られました。それは、その人の問題の核心を見抜き、もっと大きなことに気付いてほしかったからです。イエス様は、こう続けられました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」イエス様は、その人の問題の核心が「貪欲」であることを見抜いておられました。その問題を解決しない限り、たとえ遺産の問題を解決しても、その人は決して幸せにはなれないことを知っておられたのです。

彼らに共通しているのは「貪欲」でした。聖書にはこうあります。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロ3:5)」遺産相続で困っていた人は「この問題さえ解決し、お金が転がり込んで来たら自分はもっと幸せになれる」と信じ、愚かな金持ちは「財産をもっと蓄えられたら、安心して、楽しめる」と信じていました。彼らはともに「お金が自分を幸せにしてくれる」と信じていたのです。もし私たちが「○○だったら幸せになれるのに」「それさえあれば大丈夫!」「それがないと私は絶対に幸せになれない」など、お金でも、異性でも、立ち場でも、何かに執着し、それを絶対化してしまうなら、それが私たちの偶像なのです。神様よりも、神様の与えてくださるものを愛してはいけません。本当の意味で、私たちを幸せに導き、生きる希望と喜び(永遠のいのち)で満たしてくださるのは、主イエス・キリストなのです。イエス様は、彼にも、この本当の喜び(宝)を発見し、新しい人生をスタートしてほしかったのです!


ウェストミンスター小教理問答
問1.「人の主な目的は何であるか?」
答1.「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである」


このキリストのうちに、
知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
コロサイ2章3節









2013年9月12日木曜日

その9 「憐れみ深いサマリヤ人~後編」 ルカ10章25-37節

前回は、たとえ話本文から教えられました。ある人が強盗に襲われ、道に倒れていました。そこに二人の祭司とレビ人が通りかかりました。当時の宗教的指導者たちで、いままさに、エルサレム神殿での奉仕を終えて、帰宅を急いでいました。そんな彼らが、倒れている男を見た時、もちろん、何とかしてあげたいと思ったでしょう。でも結局、面倒に巻き込まれたくないという気持ちの方が勝り、誰も見ていないことを確認すると、道の反対側を通り過ぎて行ってしまったのです。私たちに彼らを非難することはできるでしょうか?私たちも、結構、同じようなことをしているのではないでしょうか?その度に理由はあります。「その時は○○だったから素通りするより仕方がなかった」「そもそも助けることが、相手のためになるとは限らなかった」など。でも結果的に、私たちもその人を見捨てているのです?愛とは、困った人に近寄って、面倒に巻き込まれ、損をすることです。しかもそれを、損とも思わないことなのです。今日はその続きです。

「おなたも行って同じようにしなさい。」イエス様は、最後にこう言われました。そもそも、このたとえ話は、律法の専門家の「では、私の隣人とは、誰のことですか?」との問いかけによって始まりました。以前も話しましたが、この律法の専門家は、その問いに対する「正しい答え」を、自分なりに用意していました。それは「同胞のユダヤ人で、律法を守る者こそが『私の隣人』で、愛すべき対象です。でも、それ以外の者は、愛さなくても良い」という考えでした。でもイエス様は、そんな彼に「あなたは議論ばかりをして、本質を見失っている。あなたは最も大切なことを忘れている。本来の信仰とは、目の前に倒れた人がいたら、単純にかわいそうだと思い、その気持ちを、すぐに行動に移す事だ」と教えておられるのです。イエス様のお気持ちは、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか?(36)」との問いの中にも現れています。もちろん「かわいそうに思って、その人に憐みをかけてあげた人」なのです。他の聖書の箇所にもこうある通りです。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:26-27)」でも大切なことは、それだけではありません。

イエス様の教えは、困っている人を助けなさい、という道徳以上のものです。このたとえ話は「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか(25)」という律法の専門家の質問にも、答えていることも忘れてはいけません。もしイエス様の教えが、単に困っている人を助けなさい、という道徳であるならば、結局のところ「何か良いことをしたら永遠のいのちを受け取ることができる」という、律法の専門家の考え方に賛成しているのではないでしょうか?そういう考え方のことを、律法主義といいますが、イエス様は聖書の中で、この律法主義に対し、NOを突き付けておられます。なぜなら、それは神様を必要とせず、自分の力で自分を救おうとする、自分を神とする偶像崇拝だからです。人間の罪は「あなたは神のようになる(創世記3:5)」というサタンの誘惑に負けることから始まりました。聖書にもこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)」これこそ、この話の、もう一つのメッセージです。

本当に大切なことは、このたとえ話の表面的な意味の奥に隠されている「奥義」に気付くことです。だからといって、表面的な意味は重要でない、と言っているのではありません。「あなたも行って同じようにしなさい。」このメッセージを真摯に受け止め、知らんふりを止め、困っている人々に寄り添うことは大切です。しかし、必ず限界があります。真剣に受け止めるほど、私たちは自分の中にも、あのレビ人や祭司が宿っていることを発見するのです。その時私たちは気づきます。実は自分こそが、瀕死の状態で倒れている者であり、助けを必要としているという現実を。そして自分は、人を救えないばかりか、自分さえも救うことのできない罪人なのだということに気付くのです。憐れみ深いサマリヤ人は、イエス様のことです。イエス様は、倒れている私たちに憐れみをかけ、駆け寄り、十字架にかかり、救ってくださいました。このように愛された者として、その愛を周りの人々に少しずつお返しして行くのが、私たちの、残された人生の、使命なのです。

愛することによって、愛のなさが分かる。愛のなさが分かると、永遠の愛が分かり始める。



しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を
明らかにしておられます。
ローマ5章8節



2013年8月1日木曜日

その8 「憐れみ深いサマリヤ人~中編」 ルカ10章30-35節

前回、律法の専門家はイエス様に「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と質問しました。新共同訳聖書には「彼は自分を正当化しようとして」そう質問したとあります。彼の中には既に答えが用意されていました。「『隣人をあなた自身のように愛せよ』との戒めは、レビ記に書かれている。それによれば、隣人とは『同胞のユダヤ人』のことだし、『律法を守っている人々』のことだ。私はそういう人だったら愛しているよ!だから私は正しのです!!」おかしな理屈です。聖書には「隣人を愛しなさい」とあるのに、彼は屁理屈によって「愛さなくてもよい隣人」をつくり上げてしまっていたのです。そんな彼に語られたのが「憐れみ深いサマリヤ人」でした。

たとえ話の、場面設定は「エルサレムからエリコに下る道」でした。この道は、地図で見ると、かなり急斜面です。しかも強盗がよく出ることから「血の道」と呼ばれていました。その手口は、とても残忍で、人の善意を欺(あざむ)くものでした。自分たちの仲間に、動物の血で塗りたくり、道の真ん中の寝せておくのです。そして善意から、心配して「大丈夫ですかぁ」と近づいてくる人があるでしょう。すると、いっせいに仲間が出てきて、何もかも奪い去ってしまう。しかも口封じのために、相手を半殺しにする徹底ぶり。それが当時、恐れられた強盗の手口でした。そんな危険いっぱいの道でしたが、他に道があるわけでもなく、人々は仕方がなくその道を通らなくてはいけませんでした。イエス様のたとえ話はこう続きます。「(その日も)ある人が…強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。(30)」聞く人々は、背後にある事情をよく理解していたことでしょう。そこに、二人の人が通りかかりました。「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(31-32)」

祭司とレビ人は、当時の宗教家です。そもそも場所は「エルサレムからエリコに下る道」でしたが、きっとこの二人はエルサレムにある神殿に行き、そこで礼拝での御用を終えて、家へと帰る途中だったのでしょう。そこで見てしまったのが、血を流して倒れている「その人」でした。もちろん心では、何とかしてあげたいと思ったことでしょう。でも、もし自分が駆け寄ったら、自分も襲われてしまうかもしれないと思いました。面倒に巻き込まれてしまうとも思いました。そう思い出すと「しなければいけないこと」は頭では分かっていても、なかなか体が動きませんでした。そして、ついに、誰も見ていないことを確認すると、道の反対側を通り過ぎて行ってしまったのです。彼らだって心を痛めたはずです。その後、何度もその人の姿を思い出して、罪悪感も覚えたことでしょう。でも結果的には、その人を見捨てたのです。私たちに彼らを非難することはできるでしょうか?そういうことを、私たちも結構しているのではないでしょうか?そのたびに、色々な理由はあるのです。「その時は○○だったから素通りするより仕方がなかった」「そもそも、助けることが必ずしも正しいとは限らなかった」などなど。でも結果的に、その時、私たちもその人を見捨てているのではないでしょうか?祭司とレビ人たちの姿は、私たちの姿でもあります。

そこに、もう一人の人が通りかかりました。彼は「サマリヤ人」でした。「サマリヤ人」とは当時ユダヤ人と大変仲の悪い人々でした。もとは同じイスラエル人だったのに、歴史的および宗教的な理由により犬猿の仲となり、道で会っても、挨拶もしないような関係でした(脚注参照)。でもこのサマリヤ人は、ごく自然に「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。(33-34)」しかも「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』(35)」とまで言うのです。なぜ彼は、そこまでしたのでしょうか?理由はただひとつ「彼を見てかわいそうに思った」からです。律法の専門家は、屁理屈をこねて「愛さなくても良い隣人」をつくり上げていました。祭司やレビ人も、色々な理由をつけて、見て見ぬ振りをしました。でも、このサマリヤ人は「彼を見てかわいそうに思い」ごく自然に、やるべきことを行動に移すことができたのです。どんなに理屈で塗り固めた「正しい」信仰をもっても、「困った人を見て、かわいそうに思う」「当然の憐みの心」を失っては何にもならないのです。そんな当たり前のことを、イエス様は、教えておられます。

愛とは、困った人に近寄って、面倒に巻き込まれ、損をすること。しかもそれを、損とも思わないこと。



たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、
彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。(31)
ところがあるサマリヤ人 は、彼を見てかわいそうに思い、
…介抱してやった。(33-34)







<サマリヤ人とは>
ダビデの時代にイスラエル王国は確立したが、その後、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂してしまう。サマリヤは北イスラエル王国の首都。その後、まず北イスラエルはアッシリヤによって、後に南ユダもバビロンによって滅ぼされてしまう。特に先に滅ぼされた北イスラエルは、他国の宗教を取り入れ、異邦人と結婚し、南ユダの人々から見れば、もはや同じ民族とは呼びたくない状況になっていた。そうして北イスラエルの人々はサマリヤ人、南ユダの人々はユダヤ人と呼ばれるようになっていく。70年の捕囚の後、南ユダの人々はエルサレムに神殿を再建するが、その際、一緒に再建したいというサマリヤ人の申し出を断ってしまう。そこでサマリヤ人は、エルサレム神殿に対抗してゲリジム山に神殿を築き、モーセ五書だけが正典であるとする独自のサマリヤ教団を立ち上げる。こうしてユダヤ人とサマリヤ人の対立はますます深くなった。こうして彼らは、本来もっとも近い隣人であるはずなのに、もっとも遠い存在となっていたのである。

2013年7月25日木曜日

その7 「憐れみ深いサマリヤ人~前編」 ルカ10章25-29節

前回まで読んでいた「失われた二人の息子」のたとえ話は、日本で「放蕩息子」として知れ渡っています。今日お話しするたとえ話も、その次くらいに、有名な話です。そのタイトルは「良きサマリヤ人」と呼ばれています。きっと英語の「the good Samaritan」から来ているのでしょう。毎回ドイツ語を引き合いに出して恐縮ですが、ドイツ語圏では「der barmherzige Samariter(憐れみ深いサマリヤ人)」のたとえ話と呼ばれています。私は、この話しに関しても、こちらの方が、ふさわしい気がします。なぜなら「good」というと「行いにおいて良い」というイメージが強いのですが、この話しのもっとも伝えたいことは、むしろ「心」「憐れ深さ」にあるからです。

このたとえ話も、出会いから生まれました。ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとしてこうたずねました。「先生。何をしたら永遠のいのち を自分のものとして受けることができるでしょうか。」彼は民衆に律法(旧約聖書)を教え、彼らの信仰が正しいかどうかをチェックする立場にありました(脚注参照)。そこで彼は民衆の間で話題になっているイエスに、公開質問し、イエスの信仰をチェックし、あわよくば自分の方が律法に詳しいことを見せつけてやろうと思ったのです。この質問に、彼の信仰を垣間見ることができます。彼は「何かをしたら」「永遠のいのち」を受けられると思っていたのです。その質問に対しイエス様は「(あなたは専門家でしょう?)律法には何と書いてありますか?あなたはどう読んでいますか?」と問い返されました。すると彼は、用意していた答えをスラスラ述べ始めました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、 あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』 とあります。」実際に素晴らしい答えでした。彼は旧約聖書の「申命記」と「レビ記」から御言葉を引用し、見事に分厚い聖書を「二つの戒め」に要約したのです。さすがは律法の専門家です。そこでイエス様は「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と答えられました。それを聞いて、彼は「自分の信仰が行いを伴っていない」と責められた気持になったかもしれません。そこで彼はもう一度、自分の正しさを示そうとしてこうたずねました。

「では、私の隣人とは、だれのことですか。」新共同訳聖書には「彼は自分を正当化しようとして」そう質問したとあります。ヒトは咎められたり、都合の悪いことを言われたりすると、自己正当化のために、おかしな理屈を述べることがあります。律法の専門家も、頭では十分すぎるほど分かっていました。神を愛し、隣人を愛することがどんなに大切かを…。しかし、それを「行ないなさい」と言われると自信がなかったのです。そこで彼は、得意な「解釈」で、自己正当化しようと思ったのです。この質問に関しても、彼の中には既に答えが用意されていました。「『隣人をあなた自身のように愛せよ』との戒めは、レビ記に書かれている。その前後には『復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である(19:18)』とある。つまり「私にとっての隣人とは『あなたの国の人々』『同胞のユダヤ人』のことだ。更にその前後を読めば『罪人は除外する』とも書いてある。私は『ユダヤ人の、律法を守る人々』のことは『隣人』として愛している。だから私は正しい!」これが彼の用意していた答えでした。なんと狭い隣人愛!はたしてそれが愛と呼べるのでしょうか?おかしな理屈です。聖書には「隣人を愛しなさい」とあるのに、彼は屁理屈によって「愛さなくてもよい隣人」をつくり上げてしまっていたのです。聖書を熱心に調べながら、心はますます神様から離れていく、律法の専門家でした。そんな彼に語られたのが「憐れみ深いサマリヤ人」でした。

私たちは大丈夫でしょうか。頭ではAをしなくちゃいけない、と分かっているのに、無理矢理Bという結論にこじつけていないでしょうか?聖書は「あなたの神である主を愛し」「あなたの隣人を愛せよ」と教えているのに、自分に都合の良い論理を組み立てて「こういう場合は神様を愛さなくてもいい」「こういう隣人は愛さなくてもいい」と、例外規定ばかりを設けていないでしょうか?もっとシンプルに、理屈を抜きに「愛する」ことが大切なのではないでしょうか?もし「あなたの周りに、問題を抱えた人はいませんか?」「自分の力ではどうしようもなくて、もがき苦しんでいる人はいませんか?」と聞かれたら、まっさきに誰のことを思い浮かべますか?その人こそ、あなたの隣人なのではないでしょうか?神様は、あなたがその人とどう向き合い、どう関わるかに関心をもっておられます。それが本当の意味で「神様を愛する」ことでもあるのです。

愛さなくてもいい、理由を探さなくてもいい。単純に愛することが大切なのだ。



しかし、彼は自分を正当化しようとして、
「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカ10章29節(新共同訳)

主はカインに
「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。
カインは答えた。
「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
創世記4章9節






<律法の専門家とは>
律法の専門家とは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を中心とする、旧約聖書全体を研究し、「律法」と「律法の解釈」を民衆に教える立場にあった。しかし時代と共に、彼らは解釈論争に明け暮れるようになり、律法の真意を見失う傾向にあった。

2013年7月18日木曜日

その6 「失われた息子たち~まとめ」 ルカ15章1-32節

前回、弟が帰って来た時、兄はひどく怒り、家に入ろうともせず、お父さんにこう訴えました。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(29-30)」この中の「このあなたの息子のためには」との表現に残念な思いがします。「あなたの息子」とは「自分の弟」ではありませんか。それなのに彼は、自分の弟のことを心の中で、もう帰って来るはずがない、いや帰ってこなくても良い存在として「殺して」しまっていたのです。彼は行いにおいては正しくても、愛を失った、自己中心な罪人でした。

ある人は、このたとえ話を読んで、こう思うかもしれません。「私もこのお兄さんみたいな人を知っています。嫌な思いをしました!」でもこのたとえ話は、兄を悪者にしているわけではありません。このお父さんは、弟のことも兄のことも、ご自分の子として愛していました。その証拠に、お父さんは兄にこう話しかけています。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。(31-32)」。古い新改訳には「子よ」が抜けていますが、新しい訳では加えられています(重要なことです!)。弟に対する憐れみがなく、父に対しては「こんなに我慢して一緒にいてやったのだから、俺のことをもっと正当に評価しろよ」と暴言を吐くような兄に向って、父はやさしく「(我が)子よ」と語りかけているのです。これこそ父の愛です。父は「おまえのことを愛しているよ。でも弟の事も愛しているんだ。どうか家に入って、弟の帰郷を一緒に喜んでおくれよ」とお願いしているのです。

お父さんの愛は、お兄さんと弟、どちらに対しても100パーセントです。どちらかを80愛したら、もう片方には20しか愛が残っていないということはないのです。また愛とは「行い」によって、増えたり減ったりするものでもありません。存在そのものに注がれているのです。しかし私たちは、どこかで愛を誤解してしまいます。例えば「弟より『兄タイプ』の方が愛されて当然だ」とか、「幼い時から、神様を離れず、真面目に教会生活を送ってきたクリスチャンの方が、好き放題やって、ただ憐れみによって救われたクリスチャンよりも祝福されて当然だ」などと。そういった傾向は、より「正しい人」に見られます。「正しい人」は心のどこかで「正しい評価と報い」を期待しています。そして弟タイプの人が悔い改めても、心の奥底では「自分たちの方が、祝福されて当然でしょ!」と思っているのです。しかし実際、神様は驚くほど公平な方なので、どちらも100パーセント愛してくださるのです。すると兄タイプは、その現実を受け入れられず、激しく嫉妬するのです。もし弟が100愛されるなら、自分は120愛されていないと気が済まないのです。弟より、自分の方が立派で、価値があると思っている時点で間違っています。自分の中の、人を小馬鹿にした心や、憐れみのなさ、嫉妬深さは、弟の「罪」よりも「立派」なのでしょうか?神様の前には、どちらも同じ罪人であり、どちらも失われた息子なのではないでしょうか。

この「失われた二人の息子」のたとえ話は、パリサイ人や律法学者に語られた一連の話しの一部です。彼らはイエス様が、自分たちではなく、罪人たちの方に歩み寄り、一緒に食事を取られたことに腹を立て、つぶやきました。きっと取税人や罪人より、自分たちの方が立派で、特別に扱われて当然だと思っていたのでしょう。彼らはいつもそのように「表面的な正しさ(行い)」で、自分も他人も裁いていました。しかし神様は、私たちの「行い」よりも、心に目をとめられます。その心の中を見てみるとき、果たして私たちは他の人より立派だといえるでしょうか?たとえ立派な行いをしたとしても、その瞬間、私たちの心には、その行いを誇る「偽善」が芽生えてしまうのではないでしょうか。それが人間としての現実なのです。イエス様はそんな私たちを探して救うために、十字架にかかり、自己犠牲の愛を示して下さいました。弟は、何事もなかったかのように、お父さんによって再び子として迎えられていますが、その背後には、命をもって贖ってくださった、もう一人の兄上、イエス様の愛が隠されているのです(ロマ8:29)。物語の兄も、この愛に満ちた兄上に出会い、人生の方向転換をすることが求められています。その時、この失われた二人の息子は本当の意味で父のもとに帰ってきて、神と隣人への愛に生きるものとされるのです。

義務や強制ではなく、一方的な恵みを知る時、
私たちの人生に、真の方向転換が始まる。



すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。
ローマ3章23-24節


2013年7月11日木曜日

その5 「失われた息子たち~兄篇」 ルカ15章25‐30節

前回は弟の帰郷から教えられました。家が見え始めたころ「向こうから、なり振りかまわず駆け寄って来る姿がありました。以前より痩せ衰え、小さくなっていたかもしれません。でも転がるように、すごい勢いで近づいて来るのです。お父さんでした!そして何も言わず、汗と垢にまみれ、豚の臭いが染み付いていたかもしれない彼の首を抱き寄せ、何度も口付けをするのです。そしてこう叫びました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24)。」この箇所より、私たちはお父さんの深い愛を学びました。今日はその続きです。

祝宴が始まり、音楽や踊りが始まった頃、もう一人の息子、お兄さんが仕事から帰ってきました。兄が「これは何事か」と、しもべの一人に聞くと、弟が帰ってきて、喜んだ父が、肥えた子牛をほふって、祝宴を催したと答えるではありませんか(25)!その瞬間、お兄さんは、一瞬にして怒りの頂点に達し、肩を震わせ、家に入ろうともしませんでした。きっと、お兄さんは生真面目な性格だったのでしょう。財産の生前分与を受けても(12)、弟のようにその財産を食いつぶすことなく、こつこつ働き、畑仕事から、雇い人の世話まで、何から何まで一手に引き受け、この家を守って来ました。お父さんは既に高齢で、実務からは手を引き、弟のことばかりを気にかけ、来る日も来る日も玄関先で、弟の帰りばかりを待ちわびていたのかもしれません。そんな父の姿を横目に、お兄さんは、もしかしたら「僕がいるのに、どうしてそんなに悲しむの」と思っていたかもしれません。でもそんな事は一言も口にすることもなく、歯を食いしばって、辛い仕事にも耐えて来たのです。辛くはありましたが、それがお兄さんの誇りでもありました。村の人々が、そんなお兄さんの姿を見て「お兄さんは偉いわねぇ、それに引き換え弟は…」と憐れみに満ちた声で言うなら、その「比較こそ」彼の喜びでありました。そして「お父さんも、きっとこんな自分を、弟よりも余計に愛して、認めて、褒めてくれるだろう」と思い、それを心の支えとしていました。弟のことは、少しは心配したかもしれませんがが、比較的どうでもよいことでした。それよりも自分の評判のほうが大事だったのです。しかしそんな彼の期待は、無残にも踏みにじられました。

なんと父は弟の帰郷を喜び、自分がいない間に、祝宴を始めてしまったというのです。お兄さんにとっては、今までの苦労を、すべて裏切られたような、許しがたい出来事でした。でも、お父さんは何も裏切っていません。お父さんにとっては「二人とも、かわいい自分の息子たち」なのです。優劣はありません。お父さんにとっては至極当然のことをしたまでです。しかし、その「お父さんにとっては至極当然のこと」すなわち「二人とも同じだけ愛している」ということが、お兄さんにとっては「もっとも許しがたい裏切り」だったのです。そこで彼は、自分の怒りの正当性を父にぶつけます。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(29-30)」ここに、いくつかの誤解があります。①お兄さんは、良い行いをすれば、余計に愛してもらえると思っていたこと。②子山羊一匹くれないと言っていますが、財産を二人に分け、弟はすべて持ちだしたのだから、残りはすべて兄のものだという事実。③弟のことを「遊女におぼれて…」と言っていますが、まだ弟に会ってもいないのに、勝手に決め付け、嫉妬の炎を燃やしていることなど。もはや冷静な判断を失っています。

しかも、このお兄さんは「あなたの息子のためには、肥えた子牛を」と言っているではありませんか。「あなたの息子」ということは、当然「自分の弟」でもあります。なのに彼は、弟のことを心の中で、もう帰って来るはずがない、いや帰ってこなくても良い存在として「殺して」しまっていたのです。また彼は家にはとどまりましたが、お父さんを愛していたわけではなく、「自分の評判」を愛していたのでした。そんな彼は弟と同じく「失われたもう一人の息子」でした。父に象徴される、神様への愛も、弟に象徴される隣人への愛も失った、さまよい歩く罪人だったのです。



誰かと比較すればするほど、愛は遠のいていく。
行いで解決しようとすればするほど、愛は分からなくなる。
愛とは、そのままのあなたに注がれている。
悔い改めたから愛されるのではない、
愛されているから悔い改めるのだ。
神様の愛に帰ろう。
祝宴の準備は整っている。



すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。
それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
ルカ15章28節

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたは、どこにいるのか。」
創世記3:9




2013年7月3日水曜日

その4 「失われた息子たち~父篇」 ルカ15章13-24節

前回、このたとえ話は「放蕩息子のたとえ話」と知られていますが、あえて「失われた息子たち」と呼びますと話しました。いきなり前言撤回ではありませんが、忘れてはいけない重要な人物がいます。「お父さん」です。そういう意味で、より正確に言うならば、このたとえ話は「二人の失われた息子たちと、そのお父さん」と言うべきでしょう。前回の内容を簡単に振り返ります。弟息子が、遺産(土地と現金)の生前分与を申し出、それを全て現金に換え、幾日もたたぬうちに遠い国に旅立ってしまいました。そして湯水のように財産を使い果たし、ちょうどそんな時、飢饉がおこり、絶体絶命のピンチを迎えてしまうのです。しかし彼はそこで我に返って、自分自身にこう言います。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』前回は、ここまで話しました。

ピンチピンチ、チャンスチャンス、ランランラン♪という替え歌に、今まで何度も励まされました。苦しみや試練を、信仰を持って受け止める時、それが回復のチャンスとなる。ただ回復するだけではなく、試練の前の状態よりも、もっとよい状態になる、そんな「再生」と「生まれ変わり」を経験してきたのです。弟息子も絶体絶命のピンチに陥りましたが、それがチャンスに変わりました。彼は苦しみの中で、自分の陥っている悲惨な状態に気付き、お父さんのもとに帰る決心をしたのです。自分の悲惨に気付くということは、なぜそんな状態になってしまったのか、その原因である罪にも気付くということです。そこで彼の口に、罪の告白が生まれました。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください(18-19)』。それは、お父さんの気持ちをなだめる単なるテクニックではありません。本当に悪かったという、心からの告白です。帰り道、彼はその言葉を、何回も何回も練習したことでしょう。そして、ボロボロになった体を引きずりながら、ひたすら家を目指しました。お父さんは許してくれるか、不安な気持ちを抱えながら…。

いよいよ家が見え始めて来たころ、向こうから、なりふりかまわず駆け寄って来る姿がありました。以前より痩せ衰え、小さくなっていたかもしれません。でも転がるように、すごい勢いで、近づいて来るのです。お父さんでした!そして何も言わず、汗と垢にまみれ、豚の臭いが染み付いていたかもしれない彼の首を抱き寄せ、何度も口付けをするのでした。弟はこみ上げる気持ちを静め、なすべきことをしようと、罪の告白をはじめます。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」本当はその後「雇い人のひとりに…」と続くはずでした。でもお父さんは、その言葉をさえぎるかのように、こう叫ぶのです。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24)。」聖書において「死」とは「関係の断絶」を意味します。弟はまさに、神様からも、お父さんからも「失われ」「死んだ」存在でした。放蕩にはじまったことではなく、実は家にいた時から、でした。彼の心には、お父さんに対する愛情も、神様に対する感謝の心もありませんでした。しかし今、彼は本当の意味で生き返り、お父さんのもとに帰って来たのです。

弟は「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と告白しました。でもその「罪」とはいったい何なのでしょう?聖書によれば、罪とは「自己中心」であり「的外れ」です。本来、私たちの命も時間も能力も、神と人とを愛するために与えられた、神様からの賜物です。でも多くの人は「神様なんて必要ない。これは私の人生だから、私の好きなように生きる。時間や能力も自分のために使う」と、自分だけを愛して歩んでいます。神様の目から見れば、そのような人は、すべて「失われ」「死んでいる」放蕩息子であり娘なのです。でも神様は、どんなに私たちが神の子としての姿を失い、罪にまみれ、御心から遠く離れていても、私たちを愛することを止めることができません。もし私たちが、我に返り、自分の生き方がいかに的外れで、神様を悲しませてきたかに気付き、帰って来るのなら、神様は大きな愛で、喜び、迎え入れて下さるのです。

全ての準備は整っている、後は私たちがその愛に気付き、方向転換をするだけである。



主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、私たちの罪にしたがって
私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、
御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
父がその子をあわれむように、
主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
詩篇103篇8-13節(抜粋)

私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
Ⅰヨハネ4章1節




2013年6月26日水曜日

その3 「失われた息子たち~弟篇」 ルカ15章11-19節

前々回は「失われた一匹の羊」、前回は「失われた一枚の銀貨」と題して学んできました。そして今日は「失われた息子たち」のたとえ話です。共通しているのは「失われた存在を見つける」というテーマと「見つけたら一緒に喜んで欲しい」という二つのテーマです。失われた存在の比率は、最初の100分の1から10分の1になり、今日はついに2分の1まで下がっています。このたとえ話を「失われた息子たち」と呼ぶことに違和感を覚える方もいるかもしれません。日本では「放蕩息子」として有名ですし、新共同訳聖書でもそのように表題がついています。でもドイツでは、このたとえ話のことを「Der verlorene Sohn(失われた息子)」と呼びます。私は、さらにそれを複数形にして「失われた息子たち」と呼びたいと思います。今日は、その前編です。

今日登場しているのは、おもに弟息子です。彼はある日突然こう申し出るのです。「お父さん、私に財産の分け前を下さい(12)」。分かりやすくいうと、遺産の生前分与を願い出ているのです。考えてもみれば失礼なことです。「お父さん」と呼んでいながら、そのお父さんには全く興味がなく、お父さんからもらえる「お金」にだけ興味を示しているのですから。つまり彼は「死ぬまで待てないから、さっさとそれを私にくれ」と言っているのです。事実、彼は財産の分け前をもらうと「幾日もたたぬうちに、何もかもまとめて遠い国に旅立って」しまいました(13)。新共同訳では「何日もたたないうちに、全部を金に変えて、遠い国に旅立ち」と訳されています。そこから伝わってくるのは、とにかく早く、遠くに「逃げ出したい」という、彼の強い気持ちです。彼はとにかく、今までのような窮屈で退屈な、お父さんの保護のもとから抜け出したかったのです。「従順で模範的な息子でいることには、もう疲れてしまった」「もっとバラ色で自由な生活を手に入れたい」そんな彼の叫び声が聞こえてきそうです。そのためには、できるだけ遠くに行き、父の目を逃れる必要があったのです。そして実際に、彼は遠くの国に旅立ち、そこで好きなようにお金を使い、ついには湯水のように使い果たしてしまったのです。言い方を変えれば、彼は「本当の自分と自由を求めて旅に出た」のですが、そこで「自分を」完全に見失ってしまったのです。

その時ちょうど、その国に大飢饉がおこりました(14)。羽振りの良かったころは友達もいたことでしょう。でも「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、無一文になった時、誰ひとり、彼に寄り添ってくれる人はいませんでした。そうして食べるのにも困り始め、ついには飢えをしのぐために、豚の世話をすることになりました。ユダヤ人は豚を食べませんから、その世話をするということは「そこまで落ちぶれた」ことを意味していました。しかも彼は、その豚の餌で腹を満たしたいと思うほど、完全に自分を見失ってしまっていたのです(16)。「こんなはずじゃなった」「思っていたほど楽しくなった」今日も多くの人々が、思う存分やってみた後でそう言います。でも実は、楽しくないどころか、とんでもない「孤独」と「悲惨」を経験し、「高い代償」を払っているのです。そうして人はやっと自分の愚かさに気付くのです。弟息子もそうでした。落ちるところまで落ちて、彼はようやく目が覚めるように、はっと「我に返り(17)」こう言いました。「立って父のところに行ってこう言おう『私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』(18-19)」。

あなたも大丈夫ですか?もしかしたらあなたも、どこかにきっとある本当の「自由」と「幸せ」を求めて、「自分探し」をしているのかもしれません。「良い子でいることに疲れた」、クリスチャンでも「模範的なクリスチャンであることに疲れた」と感じている人はいるのかもしれません。放蕩息子のように、思い切った行動に出ることはないけど、心の中では「自分だって、すべてを投げ出し、しがらみのない世界で、自由、勝手、気ままに生きてみたい」と思い続けている「放蕩未遂(みすい)息子や娘」は意外に多いのかもしれません。思春期の子だけではありません。「中年の危機」という言葉がありますが、いい歳になってから、突然、人が変わったように「自由」と「幸せ」を追い求めて、奇行に走り出す人も世の中にはたくさんいます。そして、それまで積み上げてきた「すべて」を失ってしまうのです。「妄想」を追い求めた結果の「自己喪失」という罠に気をつけなさい!その代償は高いのです。そうなるまえに「我に返る」ことが大切です。

「どこかにあるはず」の幸せはどこにもない。
逃げ出しても見つからない。
本当の幸せは、置かれた場所で

神様と隣人と自分とに向かい合うことから始まる!



しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」
ルカ15章17-18節(抜粋)




2013年6月12日水曜日

その2 「失われた銀貨」 ルカ15章8-10節

前回は「失われた羊を捜して」と題し、こう学びました。「あなたはこの話しを聞いて、自分をどこに当てはめましたか?野原に残された九十九匹に自分を当てはめ、さびしく思ったでしょうか?もしそうなら、あなたはまだこのたとえ話を理解していません。…実は、彼らも、私たちも、神様から見れば『失われた一匹』なのです。イエス様は、すべての人々を『たった一匹』であるかのように、愛してくださるお方なのです。そして、その一匹を捜して救うために、イエス様はこの世に生まれ、十字架かかってくださいました。その一方的な恵みを体験した者は、失われた人々の救いを心から願い、その救いを心から喜ぶことができるのです。」今日はその続きです。

今日は、「なくした銀貨」のたとえ話です。10枚の銀貨を持っていた女の人が、1枚なくしてしまった。そこで、明かりをつけて、家じゅう大掃除をして、見つけるまで念入りに捜した。その甲斐あって見つかり、喜んだ持ち主は、友人知人の女性たちを集めて「一緒に喜んでください」と言った。とても単純なたとえ話です。でも、単純なのだけれど、どこか違和感があります。ここで登場している銀貨とは、当時一般に流通していたギリシャ銀貨「ドラクマ」のことで、その価値は一枚で当時の平均日当、つまり大ざっぱにいえば一万円くらいでした。とすると、彼女は10万円持っていて、その内の1万円をなくしたということになります。もちろん必死で探すでしょう。私でも、畳はめくりませんが、夜なら部屋を明るくし、棚の下までしっかり調べるでしょう。決して「まだ9万円ある」とは言いませんし、少し捜して「まぁいいや」と諦めることもしません。それくらい大切なものだからです。でもだからと言って、見つけたら、友人知人を呼び集めて「いっしょに喜んでください!」と言うでしょうか?もしそれが真夜中だったとしたら、友人たちはどう思うでしょうか?気が狂ったと思わないでしょうか?少し大げさな感じがします。

でも、その大げささが、このたとえ話の言わんとしていることなのです。似顔絵を描く時、人はわざとその特徴をとらえ、その部分を大げさに描くものです。それによって、誰でもすぐに「あの人だ」と分かるためです。このたとえ話は「神様の似顔絵」です。神様の特徴を分かりやすく、大げさに描いているのです。ドラクマ銀貨は、当時の羊一匹の値段でもありました。つまり前回話した、失われた1匹の羊とも、繋がっているのです。私たちは時に、自分自身でも、それほど価値がないと感じてしまうことがあります。「自分には愛される価値なんてない」「神様に捜される価値なんかない」と。でも、私たちがどう思おうと、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と仰ってくださるのです。もし、そんな私たちが、たとえ1人でも失われ、暗闇の中でもがき苦しむことがあるなら、神様は、明かりをつけて、見つけるまで、念入りに捜して下さるのです。その究極の姿が、イエス様の十字架です。イエス様は「失われた人を、捜して救うために来られました(ルカ19:10)」。そして、失われた人が、見つかり、イエス様のもとに帰ってくるなら、たとえ真夜中であっても、友人知人をたたき起したいくらい、喜んでくださるのです。あなたは、それほどに愛されているのです!聖書にはこうあります。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(10)」

その愛は、まさに、気が狂わんばかりの愛です。パリサイ人や律法学者たちは「どうしてこの人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にするのか」とつぶやきました(2)。なぜでしょうか?彼らには、失われた人の価値が分からなかったからです。彼らが愛していたのは「正しい自分」だけでした。「自分は罪人のようではない」ことだけで満足していたのです。イエス様はどれほど願われたことでしょう?同じ神様を知る者として、パリサイ人も立ち上がって、一緒に失われた1匹を、失われた1枚の銀貨を、捜してくれることを!でも彼らは立ち上がってくれませんでした。そればかりか、必死に探すイエス様を、心の中でバカにして、批評して、文句を言っていたのです。イエス様は、そんな彼らに、たとえ話の中で、何度も「いっしょに喜んでください(9)」とお願いしています。でも、その叫びも、彼らには届きませんでした。あなたはどうですか?あなたの仕事は、他人の奉仕を批評することではありません。自分もイエス様と一緒に立ちあがり、一緒に捜すことではありませんか。それができなくても、一緒に喜ぶことはできるのです。

失われた人に対する、イエス様の狂わんばかりの愛を理解して、一緒に立ちあがるのは誰ですか?



また、女の人が銀貨 を十枚持っていて、
もしその一枚をなくしたら、
あかりをつけ、家を掃いて、
見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、

友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『なくした銀貨を見つけましたから、
 いっしょに喜んでください』と言うでしょう。



ルカ15章8-9節




2013年6月5日水曜日

その1 「失われた羊を捜して」 ルカ15章1-7節

今日から新しいシリーズを始めたいと思います。タイトルは「イエスのたとえ話」。参考図書があります。加藤常昭著の「主イエスの譬え話」(教文館)です。興味のある方は、実際に読まれても良いでしょう。最初に取り上げるのは「失われた羊」のたとえ話です。この話しはとても有名で、日曜学校に通っている子であれば、必ず耳にしています。私も幼い時に、この話しを紙芝居で見たことを、今でも強烈に覚えています。そもそもイエス様は、なぜ、たとえ話を語られるのか?それはイエス様の語られる真理が「奥義(おくぎ)」と呼ばれ、私たち人間にはある意味隠されており、それを理解し、真理を悟るためには「イエスのたとえ話」が必要だったからです。

たとえ話を読む際、大切なのは、それが「誰に語られているか」です。イエス様がたとえ話をされる時には、必ず「きっかけ」があります。人々との出会いがあるのです。そしてその相手に、大切なことを伝えたくて、そして気付いてほしくて、たとえ話が生まれるのです。今日の話しの中で、まず登場しているのは、「取税人や罪人たち(1)」です。罪人というのは、読んで字のごとく、罪を犯した(犯している)人のことです。もしかしたら法を犯したのかもしれませんし、そうでなくても、信仰的な人々から見れば、神様のみこころに背いている人々のことです。問題なのは取税人です。取税人というのは、同胞のユダヤ人から税金を集めて、当時の占領国ローマに納める人のことです。ローマはそれを各地域の民間業者に請け負わせていました。ですから、取税人は同胞のユダヤ人から「ローマの犬(手下)」だと嫌われていたのです。また彼らが日常的に不正を働き、必要以上に集め、私腹を肥やしていたとも言われます。そういうこともあって、普通のユダヤ人であれば、彼らと食事はとることはおろか、道で会っても目も合わせず、口もきこうとしませんでした。しかし、イエス様は、自ら彼らに近づき、一緒に食事を取られたのです(2)。

それを見て、つぶやいたのが「パリサイ人や律法学者たち」でした。「パリサイ人」とは直訳すると「分離された者」です。彼らはとにかく旧約聖書の律法を厳格に守ることで知られていました。その中でも、特に聖書知識に通じていたのが「律法学者」たちです。一説によれば、これは「あだ名」だとも言われています。「自分は君たちとは違う」という「他の人々から分離した生き方」が、そう呼ばせていたのです。イスラエルの民は、長く不遇な歴史をたどってきました。占領され、散らされ、奴隷にされ…。その中で民族的および信仰的アイデンティティーを保つためには、極端なまでに周りから自分を分離して生きる必要があったのでしょう。たとえ周りのみんなが躓いても「自分だけでも正しく生きる」くらいの強さが…。彼らは旧約聖書の預言された救い主を待ちわびていました。そして、ついに「そうかもしれない」と噂されるイエスが現れたのです!当然彼らは、まっさきに自分達に近づき、仲間になり、同じ生き方をしてくれるものと思っていました。しかしなんと、イエス様は、まず「取税人や罪人」に近づき、彼らと一緒に、親しげに食事を始められたのです。彼らは深く失望するとともに、怒り、ねたみ、「つぶやいた」のです。

そんな彼らに、イエス様は「失われた羊」のたとえ話をされました。そこに描かれているのは、まず失われた一匹を、熱心に捜し求める羊飼いの姿です。しかも「九十九匹を残して」とあります(4)。そして見つけたら、大喜びでその一匹をかついで(5)、帰ってきたら近所の友人や知人を集め「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うのです(6)。ところで、あなたはこの話しを聞いて、自分をどこ(誰)に当てはめられましたか?野原に残された九十九匹に自分を当てはめ、さびしく思ったでしょうか?もしそうなら、あなたはまだこのたとえ話を理解していません。それともクリスチャンとして、友人知人の立場に自分おくでしょうか?それはあるかもしれません。身勝手に神様から離れ、歩んできた人でも、悔い改めて、帰ってきたら、それを一緒に喜ぶのです。神様はそれを期待しています。しかしそのためにも、自分もかつては「失われた一匹だった」という自覚が必要なのです。パリサイ人にはそれがありませんでした。彼らは自分たちのことを「悔い改める必要のない正しい者の側」においていたのです。でも実際は、彼らも、私たちも、神様から見れば「失われた一匹」なのです。イエス様は、すべての人々を、「たった一匹」であるかのように、愛してくださるお方なのです。そして、その一匹を捜して救うために、イエス様はこの世に生まれ、十字架かかってくださいました。その一方的な恵みを体験した者は、失われた人々の救いを心から願い、その救いを心から喜ぶことができるのです。

あなたは分離主義者の仲間ですか?それとも失われた一匹を捜されるイエス様の仲間ですか?



あなたがたに言いますが、
それと同じように、
ひとりの罪人が悔い改めるなら、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人に
まさる喜びが天にあるのです。
ルカ15章7節