2013年6月26日水曜日

その3 「失われた息子たち~弟篇」 ルカ15章11-19節

前々回は「失われた一匹の羊」、前回は「失われた一枚の銀貨」と題して学んできました。そして今日は「失われた息子たち」のたとえ話です。共通しているのは「失われた存在を見つける」というテーマと「見つけたら一緒に喜んで欲しい」という二つのテーマです。失われた存在の比率は、最初の100分の1から10分の1になり、今日はついに2分の1まで下がっています。このたとえ話を「失われた息子たち」と呼ぶことに違和感を覚える方もいるかもしれません。日本では「放蕩息子」として有名ですし、新共同訳聖書でもそのように表題がついています。でもドイツでは、このたとえ話のことを「Der verlorene Sohn(失われた息子)」と呼びます。私は、さらにそれを複数形にして「失われた息子たち」と呼びたいと思います。今日は、その前編です。

今日登場しているのは、おもに弟息子です。彼はある日突然こう申し出るのです。「お父さん、私に財産の分け前を下さい(12)」。分かりやすくいうと、遺産の生前分与を願い出ているのです。考えてもみれば失礼なことです。「お父さん」と呼んでいながら、そのお父さんには全く興味がなく、お父さんからもらえる「お金」にだけ興味を示しているのですから。つまり彼は「死ぬまで待てないから、さっさとそれを私にくれ」と言っているのです。事実、彼は財産の分け前をもらうと「幾日もたたぬうちに、何もかもまとめて遠い国に旅立って」しまいました(13)。新共同訳では「何日もたたないうちに、全部を金に変えて、遠い国に旅立ち」と訳されています。そこから伝わってくるのは、とにかく早く、遠くに「逃げ出したい」という、彼の強い気持ちです。彼はとにかく、今までのような窮屈で退屈な、お父さんの保護のもとから抜け出したかったのです。「従順で模範的な息子でいることには、もう疲れてしまった」「もっとバラ色で自由な生活を手に入れたい」そんな彼の叫び声が聞こえてきそうです。そのためには、できるだけ遠くに行き、父の目を逃れる必要があったのです。そして実際に、彼は遠くの国に旅立ち、そこで好きなようにお金を使い、ついには湯水のように使い果たしてしまったのです。言い方を変えれば、彼は「本当の自分と自由を求めて旅に出た」のですが、そこで「自分を」完全に見失ってしまったのです。

その時ちょうど、その国に大飢饉がおこりました(14)。羽振りの良かったころは友達もいたことでしょう。でも「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、無一文になった時、誰ひとり、彼に寄り添ってくれる人はいませんでした。そうして食べるのにも困り始め、ついには飢えをしのぐために、豚の世話をすることになりました。ユダヤ人は豚を食べませんから、その世話をするということは「そこまで落ちぶれた」ことを意味していました。しかも彼は、その豚の餌で腹を満たしたいと思うほど、完全に自分を見失ってしまっていたのです(16)。「こんなはずじゃなった」「思っていたほど楽しくなった」今日も多くの人々が、思う存分やってみた後でそう言います。でも実は、楽しくないどころか、とんでもない「孤独」と「悲惨」を経験し、「高い代償」を払っているのです。そうして人はやっと自分の愚かさに気付くのです。弟息子もそうでした。落ちるところまで落ちて、彼はようやく目が覚めるように、はっと「我に返り(17)」こう言いました。「立って父のところに行ってこう言おう『私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』(18-19)」。

あなたも大丈夫ですか?もしかしたらあなたも、どこかにきっとある本当の「自由」と「幸せ」を求めて、「自分探し」をしているのかもしれません。「良い子でいることに疲れた」、クリスチャンでも「模範的なクリスチャンであることに疲れた」と感じている人はいるのかもしれません。放蕩息子のように、思い切った行動に出ることはないけど、心の中では「自分だって、すべてを投げ出し、しがらみのない世界で、自由、勝手、気ままに生きてみたい」と思い続けている「放蕩未遂(みすい)息子や娘」は意外に多いのかもしれません。思春期の子だけではありません。「中年の危機」という言葉がありますが、いい歳になってから、突然、人が変わったように「自由」と「幸せ」を追い求めて、奇行に走り出す人も世の中にはたくさんいます。そして、それまで積み上げてきた「すべて」を失ってしまうのです。「妄想」を追い求めた結果の「自己喪失」という罠に気をつけなさい!その代償は高いのです。そうなるまえに「我に返る」ことが大切です。

「どこかにあるはず」の幸せはどこにもない。
逃げ出しても見つからない。
本当の幸せは、置かれた場所で

神様と隣人と自分とに向かい合うことから始まる!



しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」
ルカ15章17-18節(抜粋)




2013年6月12日水曜日

その2 「失われた銀貨」 ルカ15章8-10節

前回は「失われた羊を捜して」と題し、こう学びました。「あなたはこの話しを聞いて、自分をどこに当てはめましたか?野原に残された九十九匹に自分を当てはめ、さびしく思ったでしょうか?もしそうなら、あなたはまだこのたとえ話を理解していません。…実は、彼らも、私たちも、神様から見れば『失われた一匹』なのです。イエス様は、すべての人々を『たった一匹』であるかのように、愛してくださるお方なのです。そして、その一匹を捜して救うために、イエス様はこの世に生まれ、十字架かかってくださいました。その一方的な恵みを体験した者は、失われた人々の救いを心から願い、その救いを心から喜ぶことができるのです。」今日はその続きです。

今日は、「なくした銀貨」のたとえ話です。10枚の銀貨を持っていた女の人が、1枚なくしてしまった。そこで、明かりをつけて、家じゅう大掃除をして、見つけるまで念入りに捜した。その甲斐あって見つかり、喜んだ持ち主は、友人知人の女性たちを集めて「一緒に喜んでください」と言った。とても単純なたとえ話です。でも、単純なのだけれど、どこか違和感があります。ここで登場している銀貨とは、当時一般に流通していたギリシャ銀貨「ドラクマ」のことで、その価値は一枚で当時の平均日当、つまり大ざっぱにいえば一万円くらいでした。とすると、彼女は10万円持っていて、その内の1万円をなくしたということになります。もちろん必死で探すでしょう。私でも、畳はめくりませんが、夜なら部屋を明るくし、棚の下までしっかり調べるでしょう。決して「まだ9万円ある」とは言いませんし、少し捜して「まぁいいや」と諦めることもしません。それくらい大切なものだからです。でもだからと言って、見つけたら、友人知人を呼び集めて「いっしょに喜んでください!」と言うでしょうか?もしそれが真夜中だったとしたら、友人たちはどう思うでしょうか?気が狂ったと思わないでしょうか?少し大げさな感じがします。

でも、その大げささが、このたとえ話の言わんとしていることなのです。似顔絵を描く時、人はわざとその特徴をとらえ、その部分を大げさに描くものです。それによって、誰でもすぐに「あの人だ」と分かるためです。このたとえ話は「神様の似顔絵」です。神様の特徴を分かりやすく、大げさに描いているのです。ドラクマ銀貨は、当時の羊一匹の値段でもありました。つまり前回話した、失われた1匹の羊とも、繋がっているのです。私たちは時に、自分自身でも、それほど価値がないと感じてしまうことがあります。「自分には愛される価値なんてない」「神様に捜される価値なんかない」と。でも、私たちがどう思おうと、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と仰ってくださるのです。もし、そんな私たちが、たとえ1人でも失われ、暗闇の中でもがき苦しむことがあるなら、神様は、明かりをつけて、見つけるまで、念入りに捜して下さるのです。その究極の姿が、イエス様の十字架です。イエス様は「失われた人を、捜して救うために来られました(ルカ19:10)」。そして、失われた人が、見つかり、イエス様のもとに帰ってくるなら、たとえ真夜中であっても、友人知人をたたき起したいくらい、喜んでくださるのです。あなたは、それほどに愛されているのです!聖書にはこうあります。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(10)」

その愛は、まさに、気が狂わんばかりの愛です。パリサイ人や律法学者たちは「どうしてこの人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にするのか」とつぶやきました(2)。なぜでしょうか?彼らには、失われた人の価値が分からなかったからです。彼らが愛していたのは「正しい自分」だけでした。「自分は罪人のようではない」ことだけで満足していたのです。イエス様はどれほど願われたことでしょう?同じ神様を知る者として、パリサイ人も立ち上がって、一緒に失われた1匹を、失われた1枚の銀貨を、捜してくれることを!でも彼らは立ち上がってくれませんでした。そればかりか、必死に探すイエス様を、心の中でバカにして、批評して、文句を言っていたのです。イエス様は、そんな彼らに、たとえ話の中で、何度も「いっしょに喜んでください(9)」とお願いしています。でも、その叫びも、彼らには届きませんでした。あなたはどうですか?あなたの仕事は、他人の奉仕を批評することではありません。自分もイエス様と一緒に立ちあがり、一緒に捜すことではありませんか。それができなくても、一緒に喜ぶことはできるのです。

失われた人に対する、イエス様の狂わんばかりの愛を理解して、一緒に立ちあがるのは誰ですか?



また、女の人が銀貨 を十枚持っていて、
もしその一枚をなくしたら、
あかりをつけ、家を掃いて、
見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、

友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『なくした銀貨を見つけましたから、
 いっしょに喜んでください』と言うでしょう。



ルカ15章8-9節




2013年6月5日水曜日

その1 「失われた羊を捜して」 ルカ15章1-7節

今日から新しいシリーズを始めたいと思います。タイトルは「イエスのたとえ話」。参考図書があります。加藤常昭著の「主イエスの譬え話」(教文館)です。興味のある方は、実際に読まれても良いでしょう。最初に取り上げるのは「失われた羊」のたとえ話です。この話しはとても有名で、日曜学校に通っている子であれば、必ず耳にしています。私も幼い時に、この話しを紙芝居で見たことを、今でも強烈に覚えています。そもそもイエス様は、なぜ、たとえ話を語られるのか?それはイエス様の語られる真理が「奥義(おくぎ)」と呼ばれ、私たち人間にはある意味隠されており、それを理解し、真理を悟るためには「イエスのたとえ話」が必要だったからです。

たとえ話を読む際、大切なのは、それが「誰に語られているか」です。イエス様がたとえ話をされる時には、必ず「きっかけ」があります。人々との出会いがあるのです。そしてその相手に、大切なことを伝えたくて、そして気付いてほしくて、たとえ話が生まれるのです。今日の話しの中で、まず登場しているのは、「取税人や罪人たち(1)」です。罪人というのは、読んで字のごとく、罪を犯した(犯している)人のことです。もしかしたら法を犯したのかもしれませんし、そうでなくても、信仰的な人々から見れば、神様のみこころに背いている人々のことです。問題なのは取税人です。取税人というのは、同胞のユダヤ人から税金を集めて、当時の占領国ローマに納める人のことです。ローマはそれを各地域の民間業者に請け負わせていました。ですから、取税人は同胞のユダヤ人から「ローマの犬(手下)」だと嫌われていたのです。また彼らが日常的に不正を働き、必要以上に集め、私腹を肥やしていたとも言われます。そういうこともあって、普通のユダヤ人であれば、彼らと食事はとることはおろか、道で会っても目も合わせず、口もきこうとしませんでした。しかし、イエス様は、自ら彼らに近づき、一緒に食事を取られたのです(2)。

それを見て、つぶやいたのが「パリサイ人や律法学者たち」でした。「パリサイ人」とは直訳すると「分離された者」です。彼らはとにかく旧約聖書の律法を厳格に守ることで知られていました。その中でも、特に聖書知識に通じていたのが「律法学者」たちです。一説によれば、これは「あだ名」だとも言われています。「自分は君たちとは違う」という「他の人々から分離した生き方」が、そう呼ばせていたのです。イスラエルの民は、長く不遇な歴史をたどってきました。占領され、散らされ、奴隷にされ…。その中で民族的および信仰的アイデンティティーを保つためには、極端なまでに周りから自分を分離して生きる必要があったのでしょう。たとえ周りのみんなが躓いても「自分だけでも正しく生きる」くらいの強さが…。彼らは旧約聖書の預言された救い主を待ちわびていました。そして、ついに「そうかもしれない」と噂されるイエスが現れたのです!当然彼らは、まっさきに自分達に近づき、仲間になり、同じ生き方をしてくれるものと思っていました。しかしなんと、イエス様は、まず「取税人や罪人」に近づき、彼らと一緒に、親しげに食事を始められたのです。彼らは深く失望するとともに、怒り、ねたみ、「つぶやいた」のです。

そんな彼らに、イエス様は「失われた羊」のたとえ話をされました。そこに描かれているのは、まず失われた一匹を、熱心に捜し求める羊飼いの姿です。しかも「九十九匹を残して」とあります(4)。そして見つけたら、大喜びでその一匹をかついで(5)、帰ってきたら近所の友人や知人を集め「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うのです(6)。ところで、あなたはこの話しを聞いて、自分をどこ(誰)に当てはめられましたか?野原に残された九十九匹に自分を当てはめ、さびしく思ったでしょうか?もしそうなら、あなたはまだこのたとえ話を理解していません。それともクリスチャンとして、友人知人の立場に自分おくでしょうか?それはあるかもしれません。身勝手に神様から離れ、歩んできた人でも、悔い改めて、帰ってきたら、それを一緒に喜ぶのです。神様はそれを期待しています。しかしそのためにも、自分もかつては「失われた一匹だった」という自覚が必要なのです。パリサイ人にはそれがありませんでした。彼らは自分たちのことを「悔い改める必要のない正しい者の側」においていたのです。でも実際は、彼らも、私たちも、神様から見れば「失われた一匹」なのです。イエス様は、すべての人々を、「たった一匹」であるかのように、愛してくださるお方なのです。そして、その一匹を捜して救うために、イエス様はこの世に生まれ、十字架かかってくださいました。その一方的な恵みを体験した者は、失われた人々の救いを心から願い、その救いを心から喜ぶことができるのです。

あなたは分離主義者の仲間ですか?それとも失われた一匹を捜されるイエス様の仲間ですか?



あなたがたに言いますが、
それと同じように、
ひとりの罪人が悔い改めるなら、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人に
まさる喜びが天にあるのです。
ルカ15章7節