2013年12月12日木曜日

その18 「羊と山羊」 マタイ25章31-46節

マタイ福音書25章の、三つのたとえ話から教えられています。第一に「十人のおとめ」、第二に「タラント」、第三に「羊と山羊」のたとえ話です。共通しているのは「再臨」のテーマです。

イエス様が再臨されて、すべての国々の民が、その御前に集められる時のこと。「彼(イエス様)は、羊飼いのように、羊を自分の右に、山羊を左により分ける」というのです。当時、羊と山羊を飼う時、昼間は羊も山羊も一緒に放牧されていました。しかし夕方になると、羊飼いは、羊と山羊を分けて、小屋に入れるのです。それと同じように、一方を右に、一方を左に…というのです。ちなみに、聖書で羊はよく神の民を象徴し、山羊は悪人を象徴します(ダニエル8:5-8)。ここでも大切なのは、その日まで、羊も山羊も同じように過ごしているということです。その違いが明らかにされるのは、イエス様の再臨の時です。逆にいえば、その日まで私たちが早まって、決めつけてしまってはいけない。人を裁くのは、人の領域ではない、ということではないでしょうか。

ではイエス様は、どのような基準で羊と山羊を分けられるのでしょうか?王(イエス様)は、右にいる者たちにはこう言います。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」反対の左にいる者たちにはこう言います。「おまえたちは、(上に書いたようなことを)してくれなかった。」つまりその違いは、困っていたり、助けを必要としていたりする人を前にして、どう行動したか(しなかったか)なのです。

それを聞いて、右の羊に分けられた人はこう言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」それに対して王は答えました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」彼にとって、困った人を助けることは、呼吸をするように当然のことでした。ですから「ありがとう」と感謝されても、「いったい何のことですか」となったのです。逆にいえば、山羊の人々は、自分と利害関係のありそうな人のためには、抜け目なく行っていたのかもしれません。だからこそ、王に「してくれなかった」と言われて「そんなはずはない」となったのではないでしょうか?

良い行いや、信仰にさえ、自己中心が入り込んで来る時があります。聖書の中にはこうあります。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。(6:3)」何もしないのは間違っています。しかし自分の利益のために、形だけでも、人に親切にしたり、宗教的によい事をしたりすればよいというのではありません。そう考えると、問題は「行い」そのものではなく、むしろ「心」にあると言えます。しかも心だけでもなく、その心が、自分の「生き方」と一致していることが大切なのです。あなたの良い行いは、本当に、神様のため、隣人のためでしょうか?それとも自分が感謝されるためでしょうか?自分のしたことを、指折り数えることはやめなさい。数えるから、悔しくなったり、バカらしくなったりするのです。むしろ「当然のことをなしたまでです」と思いなさい。呼吸をして誰かに褒められますか?いいえ、健康であれば当然のことです。神と人への奉仕も、一方的な恵みによって救われ、癒された者にとっては当然のことではありませんか。あなたの愛の実践や神への奉仕は、それぐらい自然な「生き方」になっていますか?

とはいえ、人間はそこまで立派な生き物でもありません。完全に私利私欲を捨てることができるのは、この世の人生を終える時でしょう。私たちは、実に呼吸をするように、自分のことしか考えられないのです。そんな私たちが、できもしない背伸びをして、いっさいの見返りを求めず、善行と奉仕に励むらな、まもなく息切れをして、すべてを放り投げてしまいたくなってしまうでしょう。今日のイエス様のお言葉は、そんな私たちにも向けられています。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」「大丈夫!覚えられているよ。あなたの良い行いは、どんな小さなことでも、天にて数えられているよ。」そうイエス様は、私たちが、神と人とを愛することを励まして下さっているのです。

今日も、名もないイエスと出会っているかもしれない。その時、あなたは、どんな顔をして、どんな声をかけましたか?



『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです。』
マタイ25章40節

兄弟愛をいつも持っていなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。
こうして、ある人々は御使いたちを、
それとは知らずにもてなしました。
ヘブル13章1-2節 

あなたは、施しをするとき、
右の手のしていることを
左の手に知られないようにしなさい。
マタイ6章3節




2013年12月5日木曜日

その17 「タラント」 マタイ25章14-30節

前回は「十人のおとめ」のたとえ話から教えられました。「五人は愚かで、五人は賢かった」とありますが、その違いは目に見えないところにありました。十人全員、携帯用ランプを持ち、火をともして、花婿の到来を待っていましたが、5人は油壺の中に、予備の油を満たし持っていたが、他方は持っていなかったのです。「ともし火」は、外面的な信仰のことを意味し、「油」は内面的な信仰生活のことを指しています。その違いは「花婿の到来(主の再臨)」によって明らかになります。今日の「タラント」のたとえ話も、「再臨」というテーマにおいて繋がっています。

「タラント」とは何でしょうか?これは英語の「タレント」の語源にもなっている言葉です。タレントとは、日本語でいれば「芸能人」でしょう。テレビや映画に登場する、一芸に秀でた人のことです。タラントも基本的に同じ意味です。でも聖書におけるタラントと、世間一般に使われているタレントとの間には、微妙なニュアンスの違いもあります。世間一般で言うタレントは、いわゆる生まれ持った才能のことであり、それを一生懸命みがいて、上へ昇っていくためのものです。しかし、クリスチャンにとってのタラントは、神様からの一方的な恵みによって与えられた賜物(プレゼント)であり、それを用いて神様の栄光を表し、人に仕え、地上に神の国(主の平和)を広げるためのものなのです。たった一字の違いですが、意味は根本的に違っているのです。

しかも、私たちはそのタラントを「一時的に神様から預かっている」のです。今日のたとえ話はこのように始まっています。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。(14)」「預かっている」ということは、やがて「お返しする時が来る」ということでもあります。誰から預かっているのでしょうか?主人からです。その主人とは、神様のことです。しかも、預ける額が、平等ではありません。「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、それから旅に出かけた。(15)」「なんだ、不平等じゃないか!?」と思うでしょか。でも1タラントだって、約6000デナリです。1デナリは当時の日当でしたから、単純に1万円としても、6000万円になります。ちなみに、2タラントは1億2000万円、5タラントは3億円です。比べてしまうと「これぽっち…」と思うかもしれませんが、1タラントだって、決して少ない額ではありません。

また主人が「能力に応じて」と言っていることにも注目したいと思います。別な箇所には「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。えこひいきしているのではなく、しもべのことをよく知っていて主人は、それぞれに「耐えられる分(活用できる分)」を任せて下さっているのです。そこにあるのは、主人(神様)の愛です。実際に5タラント預かったものは、その能力を活かして、さらに5タラントもうけました。2タラント預かったものも、さらに2タラントもうけます。1タラント預かったものも、もし自分の能力をフルに活かせば、主人が帰って来るまでに、もう1タラントもうけることは可能だったのです。しかし彼はそうしませんでした。主人がいなくなると、すぐに出て行って「地を掘って、その主人の金を隠した(18)」のです。しかも主人が帰って来た時、彼は言い訳をして、こう言いました。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。(24-25)」何もしなかった自分の怠惰を、すべて主人(神様)のせいにしているのです(箴16:13)。彼は主人(神様)の愛が、何も分かっていませんでした。

私たちはどうでしょうか?私たちは誰でも、神様から預かっているタラントがあります。周りと比べれば、これっぽっちと思うかもしれませんが、神様から見てちょうど良く、十分に与えられているのです(Ⅱコリ12:9)。感謝して用いる時に、結果はおのずとついて来ます。主人(イエス様)は、いつ帰って来られるか分かりません。その時、私たちが何をしなかったではなく、何をしたかが問われるのです。では、お預かりしているタラントは、どのように用いれば良いのでしょう?文字通りの金儲けではなく「天に宝を蓄える」ことです(マタイ6:20)。自分のすべてを投入し、神と人を愛する。誰も見ていないところでもしっかりする。そうすることによって、私たちは天に宝を蓄えることが出来るのです。十字架の恵みをいただき、永遠のいのちに生かされながらも、自分が救われる(裁かれない)ためだけにしか生きていない人がいます。それが地に宝を埋めておく生き方です。もっと神様の愛に信頼して、自分を神と人のため、大胆に活用してみませんか?

たった一度きりの人生を、何のために用いていますか。
人生そのものが、神様から預かったタラントでもあります。






自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、

わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
ルカ9章24節

すべて、多く与えられた者は多く求められ、
多く任された者は多く要求されます。
ルカ12章48節 

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、

盗人が穴をあけて盗むこともありません。
マタイ6章20節 

なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる」と言う。

箴言26章13節