2013年11月20日水曜日

その16 「10人のおとめ」 マタイ25章1-13節

前回は「盛大な宴会」のたとえ話から学びました。「盛大な宴会」は「神の国」のことを表していました。パリサイ人の一人は、イエス様と一緒に食事をしながら、その言葉に耳を傾け、目の前で病人が癒されるのを見ていました。そして突然ひらめくように分かったのです。イエス様の宣べ伝えておられる神の国が、どのようなものであるかを!神様の力と愛とが、今まさに力強く到来し、新しい時代の幕が上がっている!!彼は感動を抑えきれず「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と叫びました。今日のたとえ話も「神の国」という点で繋がっています。

「天の御国は…十人の娘(おとめ・新共同訳)のようです」と始まっています。「天の御国」というと、私たちは、死んだ後に行く「天国」のことを思い浮かべます。しかし、これは前回お話しした「神の国」と同じ意味です。マタイ福音書は、特にユダヤ人の向けてまとめられたイエスの言行録です。そのユダヤ人は「神様」という言葉があまりにも神聖であるため、むやみに口にせず、別な言い方をしていました。だからマタイ福音書では「神の国」のことを「天の御国」と呼んでいるのです。その天の御国が、花婿を出迎える十人のおとめ(花嫁の友人)にたとえられています。花婿はイエス様のことで、十人のおとめたちは、私たちクリスチャンのことです。その十人のおとめのうち「五人は愚かで、五人は賢かった」とあります。違いはどこにあるのでしょうか?

それは、花婿を待ちわびる態度(心構え)にありました。聖書にはこうあります「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」十人全員、携帯用ランプを持ち、火をともして、花婿の到来を待っていました。でもその違いは、油の壺の中に、油を満たし持っていたかどうかなのです。「ともし火」は、外面的な信仰のことを意味しています。みんなで礼拝し、賛美し、同じように活動しています。それに対して、油壺の中身は普段、目には見えませんし、気にもされません。「油」はそういった内面的な信仰生活のことを指しています。◇思ったよりも、花婿の到来が遅れたので、みんな眠ってしまいました。この花婿の到来は、イエス様の再臨のことです。聖書には、イエス様が十字架にかかり、3日目によみがえられたことだけでなく、やがて再び、この地上に戻って来られ、ご自身が始められた神の国を完成するとも約束されています(マタイ24、黙21、1テサ4)。加藤常昭師は「イエスは、すべての営みに決着をつけられる」と表現しています。

クリスチャンにとって「その日」は喜びであり、私たちは「その日」を待ちわびています。この地上にあっては、信仰のゆえに、誤解されたり、受け入れられなかったり、悲しい思いもするのですが、主が全てを完成してくださるからです。イエス様も「見よ、私はすぐに来る」と約束しておられます(黙22:7)。でも神様の目から見ての「すぐに」と、私たちの思う「すぐに」は違います。聖書にも「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです(Ⅱペテ3:8)」とあります。二千年間クリスチャンは主の再臨を待ちわびていますが、まだ実現はしていません。そこである者は「眠って」しまうのです。信仰を失うわけではありませんが、疲れてしまったり、緊張感を保つことができなかったり…。仕方がないのかもしれません「心は燃えていても、肉体は弱いのです(ルカ14:38)。」今日のたとえ話の中でも、賢い五人も眠ってしまったとあります。そして「その日」は突然やってきます。どんよりした眠気を打ち破るラッパの音のように「そら、花婿だ。迎えに出よ!」との声が響きわたるのです。その時、内面の違いは「明白に」されます。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えました。その時、愚かな娘たちは、賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください」と言いました。賢い娘たちは「いいえ、店に行って、自分のをお買いなさい」と答えました。冷たいようですが、最終的に信仰の世界とは、自分と神様の、一対一の関係なのです。生きている間に、助けることはできますが、その時が来てしまってから助けることはできないのです。聖書の中で、他にも再臨のことが詳しく書かれていますが、特に第一テサロニケ4-5章をお勧めします。再臨を待ち望む生活とは、情欲におぼれず自分を聖く保ち、互いに愛し合い、まじめに働き、落ち着いた生活をすることなのです。むやみに怖がったりせず「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」とも教えられています。それがすなわち「御霊を消さない(油を絶やさない)」賢いおとめの生き方なのです。

油断してはいけません。
当たり前に明日がやって来るとは限りません。
今日という日を大切に、
精一杯生きていますか?

だから、目をさましていなさい。
あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、
知らないからです。マタイ24章42節


2013年11月13日水曜日

その15 「盛大な宴会」 ルカ14章15-24節

 前回は「ぶどうの木」のたとえ話から学びました。イエス様は「お父様。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」と私たちのために執り成していて下さいます。でも私たちの罪は、一年待てばどうにかなるというものでもありません。そこでイエス様は、ついに、自分が木(十字架)にかけられ、切り倒されて下さったのです。
 その後、イエス様は色々なたとえを用いて「神の国(神様の愛と義の回復と、やがて来る完成)」について教えられました。イエス様の教えはますます広がり、パリサイ人たちの反発も強くなりました。

ある食事の席で、ある人が「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう!」と言いました。14章1節を見る時、彼もまたパリサイ派の指導者の家の食事に招かれた客の一人であったことが分かります。おそらく彼自身もパリサイ派だったのでしょう。その席で(つまり彼の目の前で)イエス様は病人を癒されました(2-4)。また直前の13節では「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」と教えられました。きっと彼はそういったイエス様の言葉や行いを見ながら、イエス様の教えている神の国が、どういうものであるかを理解しはじめたのでしょう。神様の力と愛とが、今まさに力強く到来し、あらゆる涙と悲しみがいやされる新しい時代が始まりつつあることを!そこで彼はイエス様と一緒に食事をしながら、感動を抑えきれず「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と叫んだのです。でもだからと言って、イエス様の弟子になる決心をしたわけではありません。教えには感激し、惹かれていましたが、すべてを捨てて、パリサイ派の仲間たちからの冷たい視線に耐えてまで、イエス様について行く覚悟はなく、ましてや神の国を一緒に広げようという決心もありませんでした(使徒5:12-13)。そんな彼を見てイエス様は「盛大な宴会」の話をされました。

たとえ話の中で、盛大な宴会に招待された人は、次々に辞退しはじめました。全ての準備が整い「さぁおいでください」と招かれているのに、招待客たちは直前になって「畑を買ったので」「牛を買ったので」「結婚したので」と断り始めました。口をそろえたように「すみませんが」とは言っているものの、本当に悪いと思っているのでしょうか。結局は「畑」や「牛」や「嫁」のせいにしながら、自分自身がどうでもよいと思っていたのではないでしょうか。所詮は「他人の祝い事」。余計なことに自分を巻き込み、生活を乱してほしくないと思ったのではないでしょうか。

その招待客は、イスラエルのことを表しています。彼らはまず神様の言葉と啓示を与えられ、神の民として選ばれたのに、いざイエス様が現れ「時が満ち、神の国は近づいた(マルコ1:15)」と招かれると、関心を示さないばかりか、ますます拒絶の色を濃くしていき、ついには十字架につけてしまうのです。そのことを預言してイエス様は「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい」と言われます。これはイスラエルの中の社会的および宗教的に見捨てられていた人たちです。また、それでも席に空きがあるので、今度は「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」と言われました。これは異邦人(ユダヤ人以外の人々)のことです。「無理にでも」とは「強制して」という意味ではなくて「熱心に」という意味です。

私たちも今、この「盛大な祝宴(神の国)」に、熱心に招かれています。その熱心は「神ご自身の熱心」です。あなたはどんな理由によって、その招待を辞退しようとしていますか?もしくは返事を曖昧にして、先延ばしにしていませんか?その理由は「仕事」ですか「家庭」ですか「忙しさ」ですか?それが本当に、神様ご自身の招きよりも重要なことでしょうか?またクリスチャンであっても「自分の生活が乱されない程度」に参加しよう思っていないでしょうか?「それ以上は巻き込んで欲しくない」「自分のペースは崩したくない」と思っていないでしょうか?神の国の祝宴に参加するとは「神の国とその義とを第一にする(マタイ6:33)」という生活の変化を伴います。参加しているようで、じつは無気力や無関心、冷淡によって、神様を悲しませていないでしょうか?

冷淡な私でさえも、
招き続けて下さる
あなたの愛と熱心に感謝します。
私もあなたの熱意に
応えることができますように。



『街道や垣根のところに出かけて行って、
この家がいっぱいになるように、
 無理にでも人々を連れて来なさい。』
ルカ14章23節

わたしは、反逆の民、
自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、

一日中、わたしの手を差し伸べた。
イザヤ65章2節