2013年10月30日水曜日

その14 「いちじくの木」 ルカ13章6-9節

前回は「不正な裁判官」のたとえ話を学びました。「不正な」とあるのは、彼が神を恐れず、人を人とも思わない人だったからです。そんな彼のもとに、ひとりのやもめがやってきました。彼女は「私の相手をさばいて、私を守ってください」と訴えました。しかし裁判官はなかなか取り合いませんでした。面倒くさがり、やもめを侮ったのです。でも彼女は諦めず、頼み続けました。すると不正な裁判官は「このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」と重い腰を上げました。これは逆説的なたとえ話です。私たちの神様は、愛に満ち、私たちの祈りを、身を乗り出して聞いてくださるお方です。この世にあっては不条理がありますが、この神様の愛を信じ、失望することなく、祈り続ける者でありたいと思います。

突然ですが、聖書には二種類の忍耐があります。ひとつは神様を信じる「私たちの忍耐」です。前回のたとえ話も、失望しないで、祈り続けることを教えていました。御言葉にもこうあります。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル10:36)」また聖書には、もう一つの忍耐があります。それは「神様の忍耐」です。今日のたとえ話は、そのことについて語っています。イエス様はこう始められました。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。」ある人とは、私たちを造り、地の全面に広げ、生かして下さっている父なる神様のことです。その神様がこう言われます。「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」旧約聖書では、イスラエルのことが度々「ぶどうの木やいちじくの木」にたとえられています(詩篇80:8、エレミヤ2:21、ホセア9:10)。神様はアブラハムという苗木を選び、すべての民を、神様の祝福の木陰に憩わせるために、大きく成長させて下さいました(創世記12:1-3)。

でも実際に、イエス様がこの地上で彼らのうちに見られたのは、それとは真逆の姿でした。今日のたとえ話の直前には、不幸にあった人々のことを聞いて「彼らが罪深いからそうなった」と考えていた人々に、イエス様は「そうではない。あなた方に言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(13:5)」と仰せられました。彼らは、自分達がアブラハムの子孫であるという選民意識に酔いしれ、神様が「神と人とを愛するために与えられた律法」を守りながら、守れない人を心底バカにしていました。そして自分達こそ「異邦人たちより優れ」「正しい」と、うぬぼれていたのです(3:9-10)。神様が、彼らに求めておられた「実」とは「愛、喜び、平安(ガラテヤ5:22-23)」という御霊の実でした。また、以前読んだ、取税人の祈りに見られる「悔い改め」の実でした(18:13)。そういう意味では、彼らの間に、何の実も見られなかったのです。しかも「何のために土地をふさいでいるのか分からない無意味な存在」とまで言われています。これは彼らだけの問題でしょうか?私たちもまた、どこかで人と比べて勝ち誇ってみたり、劣等感に陥ってみたり、あの人よりはましだと思ってみたり、そんな生き方を繰り返してはいないでしょうか?クリスチャンは本来、自分が救われたことに満足するのではなく、すべての民が祝福されるために、恵みの通り良き管となることを望まれているのです。そういう根本的なことを忘れて、自分だけの幸せだけを追い求めているなら、いくら罪を犯さず、間違いを犯していなくても、神様の目から見れば「場所をふさいでいるだけの、無意味な生き方(的外れ・罪)」なのです!

しかしイエス様の愛は、そんな私たちにも注がれています。「ぶどう園の番人」とは、イエス様のことですが、こう言います。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」私たちが切り倒されないように、イエス様は父なる神様に「もう少し待ってください」と執り成していて下さいます。でも私たちの罪は、一年待てばどうにかなるというものでもありません。そこでイエス様は、ついに、自分が木にかけられ、切り倒されて下さったのです。つまり私たちを生かすために、十字架にかかりいのちを投げ出して下さいました。

「場所をふさいでいるだけ」と言われたら、身も蓋もない。
でもそんな私にも注がれる、イエス様の愛に感謝しよう!


神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、
この方にあって、神の義となるためです。
Ⅱコリント5章21節


2013年10月23日水曜日

その13 「不正な裁判官」 ルカ18章1-8節

前回は「パリサイ人と取税人の祈り」から、このように教えられました。「イエス様は、このたとえ話を、自分を義人だと自任し、人を見下す、うぬぼれた人に語られています。恐らくそれは、話しに登場するパリサイ人本人のことであったことでしょう。彼らは、確かに、行いにおいては立派でした。しかし彼らは、神を敬っているようで、自分の力に頼りきっており、そう生きられない人を、心底バカにしていました。聖書のいう罪は、そういう『神を敬わず、人を人とも思わない』心のことをいいます。それに対して取税人は、自分の罪を認め、しかも自分はその罪に対して無力であり、赦して下さる神様の一方的な憐れみにすがるほかないことを知っていました。だから胸を打ちたたいて『神様こんな私をあわれんで下さい』と祈ったのです。結果的に『義』と認められたのは、この取税人の方でした。まさしく『だれでも自分を高くする者は低くされ、神様の前に自分を低くするものは、『義』と認められるからです』と言われている通りなのです。」

今日のたとえ話に登場するのは「不正な裁判官」です。どうして普通に「裁判官の話」ではなく、わざわざ「不正な裁判官」と呼ぶのでしょうか?それはこの裁判官が「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であったからです。では「神を恐れず、人を人とも思わない」とはどういう意味でしょうか?「神を恐れる」とは、分かりやすくいうと「たとえ誰も見ていなくても、目には見えない神様が見ておられることを信じて、正しいことを行うこと」です。また「人を人と思う」とは「人を人として、尊厳をもって扱う」ことです。つまりそれが出来ていなかったこの裁判官は、人が見ていないところで賄賂(わいろ)などをもらい判断をねじ曲げたり、相手が「やもめ」だからと言って「あなどり」、審議や判決においても軽んじていたと考えられます。だから彼は「不正な裁判官」なのです。そもそも裁判官とは「人が人を裁く仕事」であり、神様の代務者のような権力をもっていますから、不正に陥りやすい誘惑があるのかもしれません。だから聖書では「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない(レビ19:15)」と厳しく戒められているのです。

そこに、ひとりのやもめがやってきます。彼女は言いました。「私の相手をさばいて、私を守ってください。」やもめですから、夫を亡くしたのでしょう。もしかしたら、そんな弱みに付け込んで、土地や財産をだまし取ろうとする悪い人がいたのかもしれません。そこで法律によって自分を守ってくれるよう裁判官にお願いしたのです。しかし、彼はなかなか取り合おうとしませんでした。面倒な割に、お金になりそうになかったので、無視していたのでしょうか。でも彼女は諦めず、頼み続けました。すると不正な裁判官も、さすがに「このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」と、重い腰を上げたのです。イエス様はこう話されて後、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい」、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と言われました。「選民」とは、イスラエルだと読めないこともありませんが、前後の文脈より「イエスの弟子・クリスチャン」のことでしょう。イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネ15:16)」とも仰せられました。イエス様は、その私たちを「決して放っておかれない!」のです。

この世は不条理だらけです。悪者の不正が暴かれず、正しい者が損をすることがよくあります。選民であるクリスチャンも例外ではありません。信仰を持つがゆえの、不条理な体験というものもあるでしょう。イエス様は「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と仰せられました。これは直前の17章25-30節を受けての言葉ですが、人の子とは、人としてお生まれになった、神のひとり子イエス様のことです。このイエス様は既に来られましたし、もう一度来られると約束されています。神様の正しい裁きは、この再臨の時に完成するのですが、今の時代はまだその途上にあるのです。イエス様は別な箇所で「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい(ヨハネ16:33)」と仰せられました。そうです。あのやもめのように、ちょっとやそっと不条理な扱いを受けたからといって、いじけず、へこたれず、失望することなく、ますます神により頼む(祈る)者となりなさいと教えられているのです。なぜなら私たちの神様は、私たちのことを誰よりも愛し「決して放っておかれない方」だからです。

失望せずに祈り続けなさい。暗いトンネルの向こうには、
思いもよらない答えと、神様との新しい出会いが待っているから。



あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

ヘブル10章36節




2013年10月10日木曜日

その12 「パリサイ人と取税人」 ルカ18章9-14

前回は「上座と末席」のたとえ話について、このように学びました。「つまり神座(かみざ)にすわるのをやめなさい、ということです。生まれながらの私達は、神様が座るべき心の王座に座り、『これは私の人生だから、私の好きなようにする』と言うのです。クリスチャンも例外ではありません、口先では神様を敬いながら、結局は自分の力で生き、自分の力で自分を救おうとしているのです。そういう生き方を捨てて、自分は末席に退き、自分の罪ために十字架にかかってくださったイエス様を『心の王座(神座)』にお迎えする時、神様は私達を高く引き上げ、神の子どもの席に案内して下さるのです。最後にこうある通りです。『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです』。最後の部分は今日の箇所と全く同じです!

登場人物は二人、パリサイ人と取税人です。彼らはそれぞれ「義人(正しい人)」と「罪人(つみびと)」の代表のような存在です。以前にも説明しましたが、パリサイ人は旧約聖書に書いてある律法(宗教生活上のおきて)を厳格に守る人であり、他の人々もちゃんと守っているかチェックする人々でした。イエス様は、今日のたとえ話を「自分を義人だと自任し(「うぬぼれ」新共同訳)、他の人々を見下している者たちに対して」語られましたが、きっとそれは、パリサイ人本人のことであったでしょう。そのパリサイ人はこう祈ります。「神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」確かに立派な行いです。でも、はたして、これが、本当に「祈り」と言えるのでしょうか?彼が見ているのは、「自分の正しい行い」と「そう生きられないダメな人々」だけです。いちおう「神よ」とは呼びかけてはいるものの、人と比較して、結局は自分の優位性をアピールしているかのようです。

もう一方の取税人はどうであったでしょうか?聖書にはこうあります。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」彼は、他のみんなが祈りを捧げている宮には近づこうともしませんでした。近づけなかったのです。人目を気にしていたのではなく、自分みたいな人間は、そういう聖い場所には相応しくないと思ったのです。そして天を仰ぐこともできず、自分の胸を打ちたたいて、ひとこと「神様こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈ったのです。彼は、自分の罪だけを見つめて、嘆いていたのではなく、神様の前に出て、正直に告白し、憐れみを求めました。話し終えたイエス様はこう言われました。「あなたがたに言うが、この人(取税人)が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とてもわかりやすい話しです。でも実際の世の中はそんなに単純でしょうか?世の中には、パリサイ人のように行いが正しくて、謙遜な人もいますし、取税人のように不正を働きながら、なおかつ傲慢な人もいるのです。さらに「私は、あんなパリサイ人のようではないことを感謝します!」と正義感をかざして、逆差別をする人もあるでしょう。イエス様は、このたとえ話を通して、いったい何を教えているのでしょうか?

それは「神様の目から見た本当の義人について」です。このたとえ話は「自分を義人だと自任し、人を見下す、うぬぼれた人」に語られていますが、彼らが本当に「神様の目から見て、義人だったかどうか」は別問題です。彼らは、確かに、行いにおいては素晴らしかったのですが、残念ながら、神様が一番関心を持っておられるのは「心」なのです。パリサイ人たちは、神を敬っているようで、自分の力に頼りきっており、人を見下していました。義人の「義」の字は、イエス様の象徴である「羊」(ヨハネ1:29)と、「我(われ)」という部首によって成り立っています。この場合「羊」が「我」の上に来ていることが大切なのです。しかし、パリサイ人たちは、心の中で、自分を高く上げて、ある意味、神様よりも自分を高くしていたのではないでしょうか?聖書のいう罪は、そういう心の状態のことをいいます。彼らは、義(神様から認められることを)を必死に追い求めながら、その正反対の方向に暴走していたのです。それに対して取税人は、自分の罪を認め、自分はその罪に対して無力であり、赦して下さる神様の一方的な憐れみにすがりました。だから彼らは「義」と認められたのです。まさしく「だれでも自分を高くする者は低くされ、神様の前に自分を低くするものは、『義』と認められるからです」と言われている通りなのです。

本当に大切なのは、何をしているかではなくて、
何を大切に生きているかです。
それがあなたの生き方になるからです。


「神へのいけにえは、砕かれた霊。
 砕かれた、悔いた心。
 神よ。あなたは、それを
 さげすまれません。」
 詩篇51篇17節






2013年10月3日木曜日

その11 「上座と末席」 ルカ14章7-11節

イエスのたとえ話の学びを進めています。お気づきになっている方もあるかもしれませんが、今まで私達が学んできた「いなくなった羊」「なくした銀貨」「失われた息子たち」「憐れみ深いサマリヤ人」「愚かな金持ち」のたとえ話は、すべてルカの福音書に登場しています。そのルカの福音書の最初にはこのように書いてあります。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(1:3)」。つまり、この福音書の直接のあて先は「テオピロ殿」であり、その人物は「尊敬する」「殿(閣下)」とあることから、かなり身分の高い人であることが分かります。ですから、このルカの福音書の中には、特に金持ちや身分の高い人に対する戒めが多く含まれています。

今回のテーマは「上座と末席」です。もともとイエス様は、招かれた人々が上座を選んでいる様子に気付いて、このたとえ話を語られました。彼らはもしかしたら、その直前までイエス様と語っていたパリサイ人たちだったかもしれません。他の箇所でも「(パリサイ人たちは)宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです(マタイ23:6-7)」とイエス様に戒められているからです。そんな彼らにイエス様は「たとえ話」で語られました。「結婚披露宴に招かれた時には上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれていたら、席に着いた後で『この人に席を譲ってください』と言われてしまうかもしれません。そうしたら、あなたは恥をかいて末席に移動しなければならないでしょう。でももし末席に着くなら、招いた人が来て『どうぞもっと上席にお進みください』と言われるかもしれません。そうしたら、みんなの前で面目をたもつことになります。」一見したところ「生活の知恵」のようにも聞こえます。日本人には良く分かるでしょう。「みんなの前で恥をかかないためにはどうしたら良いか」、「傲慢だと思われないためにはどうしたら良いか」という知恵が。

でも、そうだとしたら結局は、上座に座りたいということではないでしょうか?私たち日本人は、自分から上座につくようなことはあまりしません。披露宴に行けば大体、席は決まっていますし、そうでなくても(一応)謙遜は美徳ですから、勧められるまで後ろの方に立っていたりします。しかし、心からそうしているかといえば、そうでもなく「人から○○と思われないため」の生きる知恵だったりします。本当は「もっと自分はこう扱われるべきだ」とか「少なくともあの人よりは上に扱われるべきだ」と思っていたりします。そして期待したように扱われないと、機嫌を損ねて、ふくれっ面をしたり、意固地になって、よけい隅っこの方に座ったりするのです。そういう部分で国籍は関係ありません。イエスの弟子たちもそうでした。彼らは事あるごとに「天の御国ではだれが一番偉いか」論じ合っていました。そんな彼らに、イエス様はある時、小さい子供を真ん中に立たせてこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)」当時の子どもたちは、人数にも入らないくらい「低い」存在でした。でも、だからと言って、ふくれっ面をすることはありませんでした。自分が何者でもないことを知っていたからです。私達も自分は、神様の前に「何者でもない」ことを知り、悔い改め、一方的な恵みを受け入れなければ、天の御国には入ることはできないということなのです。「祝宴(披露宴)」とは「天の御国」のことです。

つまり「神座(かみざ)」にすわるのをやめなさい、ということです。生まれながらの私達は、神様が座るべき心の王座を選び、「これは私の人生だから、ここに私が座り、私の好きなように行き先を決めます」と思う傾向があります。クリスチャンも例外ではありません、パリサイ人のように口先では神様を敬いながら、結局は自分の力で生き、自分の力で自分を救おうとしていることがあるのです。そういう生き方を捨てて、自分は末席に退き、すべてを主にゆだね、自分のために十字架にかかってくださったイエス様を「心の王座(神座・本来神様がお座りになる場所)」にお迎えする時、私達の人生は本当に「祝宴」「神の国」「永遠のいのち」を楽しむことが出来るようになるのです。なぜならその時、神様は私達を高く引き上げ、神の子どもの席に案内して下さるからです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」のです!

人と比べて、上か下かを比べているうちは、人生を楽しめない。
それを止めた時、人生の祝宴が始まる!



主の御前でへりくだりなさい、
そうすれば、
主があなたがたを高くしてくださいます。
ヤコブ4章10節