2013年7月25日木曜日

その7 「憐れみ深いサマリヤ人~前編」 ルカ10章25-29節

前回まで読んでいた「失われた二人の息子」のたとえ話は、日本で「放蕩息子」として知れ渡っています。今日お話しするたとえ話も、その次くらいに、有名な話です。そのタイトルは「良きサマリヤ人」と呼ばれています。きっと英語の「the good Samaritan」から来ているのでしょう。毎回ドイツ語を引き合いに出して恐縮ですが、ドイツ語圏では「der barmherzige Samariter(憐れみ深いサマリヤ人)」のたとえ話と呼ばれています。私は、この話しに関しても、こちらの方が、ふさわしい気がします。なぜなら「good」というと「行いにおいて良い」というイメージが強いのですが、この話しのもっとも伝えたいことは、むしろ「心」「憐れ深さ」にあるからです。

このたとえ話も、出会いから生まれました。ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとしてこうたずねました。「先生。何をしたら永遠のいのち を自分のものとして受けることができるでしょうか。」彼は民衆に律法(旧約聖書)を教え、彼らの信仰が正しいかどうかをチェックする立場にありました(脚注参照)。そこで彼は民衆の間で話題になっているイエスに、公開質問し、イエスの信仰をチェックし、あわよくば自分の方が律法に詳しいことを見せつけてやろうと思ったのです。この質問に、彼の信仰を垣間見ることができます。彼は「何かをしたら」「永遠のいのち」を受けられると思っていたのです。その質問に対しイエス様は「(あなたは専門家でしょう?)律法には何と書いてありますか?あなたはどう読んでいますか?」と問い返されました。すると彼は、用意していた答えをスラスラ述べ始めました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、 あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』 とあります。」実際に素晴らしい答えでした。彼は旧約聖書の「申命記」と「レビ記」から御言葉を引用し、見事に分厚い聖書を「二つの戒め」に要約したのです。さすがは律法の専門家です。そこでイエス様は「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と答えられました。それを聞いて、彼は「自分の信仰が行いを伴っていない」と責められた気持になったかもしれません。そこで彼はもう一度、自分の正しさを示そうとしてこうたずねました。

「では、私の隣人とは、だれのことですか。」新共同訳聖書には「彼は自分を正当化しようとして」そう質問したとあります。ヒトは咎められたり、都合の悪いことを言われたりすると、自己正当化のために、おかしな理屈を述べることがあります。律法の専門家も、頭では十分すぎるほど分かっていました。神を愛し、隣人を愛することがどんなに大切かを…。しかし、それを「行ないなさい」と言われると自信がなかったのです。そこで彼は、得意な「解釈」で、自己正当化しようと思ったのです。この質問に関しても、彼の中には既に答えが用意されていました。「『隣人をあなた自身のように愛せよ』との戒めは、レビ記に書かれている。その前後には『復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である(19:18)』とある。つまり「私にとっての隣人とは『あなたの国の人々』『同胞のユダヤ人』のことだ。更にその前後を読めば『罪人は除外する』とも書いてある。私は『ユダヤ人の、律法を守る人々』のことは『隣人』として愛している。だから私は正しい!」これが彼の用意していた答えでした。なんと狭い隣人愛!はたしてそれが愛と呼べるのでしょうか?おかしな理屈です。聖書には「隣人を愛しなさい」とあるのに、彼は屁理屈によって「愛さなくてもよい隣人」をつくり上げてしまっていたのです。聖書を熱心に調べながら、心はますます神様から離れていく、律法の専門家でした。そんな彼に語られたのが「憐れみ深いサマリヤ人」でした。

私たちは大丈夫でしょうか。頭ではAをしなくちゃいけない、と分かっているのに、無理矢理Bという結論にこじつけていないでしょうか?聖書は「あなたの神である主を愛し」「あなたの隣人を愛せよ」と教えているのに、自分に都合の良い論理を組み立てて「こういう場合は神様を愛さなくてもいい」「こういう隣人は愛さなくてもいい」と、例外規定ばかりを設けていないでしょうか?もっとシンプルに、理屈を抜きに「愛する」ことが大切なのではないでしょうか?もし「あなたの周りに、問題を抱えた人はいませんか?」「自分の力ではどうしようもなくて、もがき苦しんでいる人はいませんか?」と聞かれたら、まっさきに誰のことを思い浮かべますか?その人こそ、あなたの隣人なのではないでしょうか?神様は、あなたがその人とどう向き合い、どう関わるかに関心をもっておられます。それが本当の意味で「神様を愛する」ことでもあるのです。

愛さなくてもいい、理由を探さなくてもいい。単純に愛することが大切なのだ。



しかし、彼は自分を正当化しようとして、
「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカ10章29節(新共同訳)

主はカインに
「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。
カインは答えた。
「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
創世記4章9節






<律法の専門家とは>
律法の専門家とは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を中心とする、旧約聖書全体を研究し、「律法」と「律法の解釈」を民衆に教える立場にあった。しかし時代と共に、彼らは解釈論争に明け暮れるようになり、律法の真意を見失う傾向にあった。

2013年7月18日木曜日

その6 「失われた息子たち~まとめ」 ルカ15章1-32節

前回、弟が帰って来た時、兄はひどく怒り、家に入ろうともせず、お父さんにこう訴えました。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(29-30)」この中の「このあなたの息子のためには」との表現に残念な思いがします。「あなたの息子」とは「自分の弟」ではありませんか。それなのに彼は、自分の弟のことを心の中で、もう帰って来るはずがない、いや帰ってこなくても良い存在として「殺して」しまっていたのです。彼は行いにおいては正しくても、愛を失った、自己中心な罪人でした。

ある人は、このたとえ話を読んで、こう思うかもしれません。「私もこのお兄さんみたいな人を知っています。嫌な思いをしました!」でもこのたとえ話は、兄を悪者にしているわけではありません。このお父さんは、弟のことも兄のことも、ご自分の子として愛していました。その証拠に、お父さんは兄にこう話しかけています。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。(31-32)」。古い新改訳には「子よ」が抜けていますが、新しい訳では加えられています(重要なことです!)。弟に対する憐れみがなく、父に対しては「こんなに我慢して一緒にいてやったのだから、俺のことをもっと正当に評価しろよ」と暴言を吐くような兄に向って、父はやさしく「(我が)子よ」と語りかけているのです。これこそ父の愛です。父は「おまえのことを愛しているよ。でも弟の事も愛しているんだ。どうか家に入って、弟の帰郷を一緒に喜んでおくれよ」とお願いしているのです。

お父さんの愛は、お兄さんと弟、どちらに対しても100パーセントです。どちらかを80愛したら、もう片方には20しか愛が残っていないということはないのです。また愛とは「行い」によって、増えたり減ったりするものでもありません。存在そのものに注がれているのです。しかし私たちは、どこかで愛を誤解してしまいます。例えば「弟より『兄タイプ』の方が愛されて当然だ」とか、「幼い時から、神様を離れず、真面目に教会生活を送ってきたクリスチャンの方が、好き放題やって、ただ憐れみによって救われたクリスチャンよりも祝福されて当然だ」などと。そういった傾向は、より「正しい人」に見られます。「正しい人」は心のどこかで「正しい評価と報い」を期待しています。そして弟タイプの人が悔い改めても、心の奥底では「自分たちの方が、祝福されて当然でしょ!」と思っているのです。しかし実際、神様は驚くほど公平な方なので、どちらも100パーセント愛してくださるのです。すると兄タイプは、その現実を受け入れられず、激しく嫉妬するのです。もし弟が100愛されるなら、自分は120愛されていないと気が済まないのです。弟より、自分の方が立派で、価値があると思っている時点で間違っています。自分の中の、人を小馬鹿にした心や、憐れみのなさ、嫉妬深さは、弟の「罪」よりも「立派」なのでしょうか?神様の前には、どちらも同じ罪人であり、どちらも失われた息子なのではないでしょうか。

この「失われた二人の息子」のたとえ話は、パリサイ人や律法学者に語られた一連の話しの一部です。彼らはイエス様が、自分たちではなく、罪人たちの方に歩み寄り、一緒に食事を取られたことに腹を立て、つぶやきました。きっと取税人や罪人より、自分たちの方が立派で、特別に扱われて当然だと思っていたのでしょう。彼らはいつもそのように「表面的な正しさ(行い)」で、自分も他人も裁いていました。しかし神様は、私たちの「行い」よりも、心に目をとめられます。その心の中を見てみるとき、果たして私たちは他の人より立派だといえるでしょうか?たとえ立派な行いをしたとしても、その瞬間、私たちの心には、その行いを誇る「偽善」が芽生えてしまうのではないでしょうか。それが人間としての現実なのです。イエス様はそんな私たちを探して救うために、十字架にかかり、自己犠牲の愛を示して下さいました。弟は、何事もなかったかのように、お父さんによって再び子として迎えられていますが、その背後には、命をもって贖ってくださった、もう一人の兄上、イエス様の愛が隠されているのです(ロマ8:29)。物語の兄も、この愛に満ちた兄上に出会い、人生の方向転換をすることが求められています。その時、この失われた二人の息子は本当の意味で父のもとに帰ってきて、神と隣人への愛に生きるものとされるのです。

義務や強制ではなく、一方的な恵みを知る時、
私たちの人生に、真の方向転換が始まる。



すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。
ローマ3章23-24節


2013年7月11日木曜日

その5 「失われた息子たち~兄篇」 ルカ15章25‐30節

前回は弟の帰郷から教えられました。家が見え始めたころ「向こうから、なり振りかまわず駆け寄って来る姿がありました。以前より痩せ衰え、小さくなっていたかもしれません。でも転がるように、すごい勢いで近づいて来るのです。お父さんでした!そして何も言わず、汗と垢にまみれ、豚の臭いが染み付いていたかもしれない彼の首を抱き寄せ、何度も口付けをするのです。そしてこう叫びました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24)。」この箇所より、私たちはお父さんの深い愛を学びました。今日はその続きです。

祝宴が始まり、音楽や踊りが始まった頃、もう一人の息子、お兄さんが仕事から帰ってきました。兄が「これは何事か」と、しもべの一人に聞くと、弟が帰ってきて、喜んだ父が、肥えた子牛をほふって、祝宴を催したと答えるではありませんか(25)!その瞬間、お兄さんは、一瞬にして怒りの頂点に達し、肩を震わせ、家に入ろうともしませんでした。きっと、お兄さんは生真面目な性格だったのでしょう。財産の生前分与を受けても(12)、弟のようにその財産を食いつぶすことなく、こつこつ働き、畑仕事から、雇い人の世話まで、何から何まで一手に引き受け、この家を守って来ました。お父さんは既に高齢で、実務からは手を引き、弟のことばかりを気にかけ、来る日も来る日も玄関先で、弟の帰りばかりを待ちわびていたのかもしれません。そんな父の姿を横目に、お兄さんは、もしかしたら「僕がいるのに、どうしてそんなに悲しむの」と思っていたかもしれません。でもそんな事は一言も口にすることもなく、歯を食いしばって、辛い仕事にも耐えて来たのです。辛くはありましたが、それがお兄さんの誇りでもありました。村の人々が、そんなお兄さんの姿を見て「お兄さんは偉いわねぇ、それに引き換え弟は…」と憐れみに満ちた声で言うなら、その「比較こそ」彼の喜びでありました。そして「お父さんも、きっとこんな自分を、弟よりも余計に愛して、認めて、褒めてくれるだろう」と思い、それを心の支えとしていました。弟のことは、少しは心配したかもしれませんがが、比較的どうでもよいことでした。それよりも自分の評判のほうが大事だったのです。しかしそんな彼の期待は、無残にも踏みにじられました。

なんと父は弟の帰郷を喜び、自分がいない間に、祝宴を始めてしまったというのです。お兄さんにとっては、今までの苦労を、すべて裏切られたような、許しがたい出来事でした。でも、お父さんは何も裏切っていません。お父さんにとっては「二人とも、かわいい自分の息子たち」なのです。優劣はありません。お父さんにとっては至極当然のことをしたまでです。しかし、その「お父さんにとっては至極当然のこと」すなわち「二人とも同じだけ愛している」ということが、お兄さんにとっては「もっとも許しがたい裏切り」だったのです。そこで彼は、自分の怒りの正当性を父にぶつけます。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(29-30)」ここに、いくつかの誤解があります。①お兄さんは、良い行いをすれば、余計に愛してもらえると思っていたこと。②子山羊一匹くれないと言っていますが、財産を二人に分け、弟はすべて持ちだしたのだから、残りはすべて兄のものだという事実。③弟のことを「遊女におぼれて…」と言っていますが、まだ弟に会ってもいないのに、勝手に決め付け、嫉妬の炎を燃やしていることなど。もはや冷静な判断を失っています。

しかも、このお兄さんは「あなたの息子のためには、肥えた子牛を」と言っているではありませんか。「あなたの息子」ということは、当然「自分の弟」でもあります。なのに彼は、弟のことを心の中で、もう帰って来るはずがない、いや帰ってこなくても良い存在として「殺して」しまっていたのです。また彼は家にはとどまりましたが、お父さんを愛していたわけではなく、「自分の評判」を愛していたのでした。そんな彼は弟と同じく「失われたもう一人の息子」でした。父に象徴される、神様への愛も、弟に象徴される隣人への愛も失った、さまよい歩く罪人だったのです。



誰かと比較すればするほど、愛は遠のいていく。
行いで解決しようとすればするほど、愛は分からなくなる。
愛とは、そのままのあなたに注がれている。
悔い改めたから愛されるのではない、
愛されているから悔い改めるのだ。
神様の愛に帰ろう。
祝宴の準備は整っている。



すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。
それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
ルカ15章28節

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたは、どこにいるのか。」
創世記3:9




2013年7月3日水曜日

その4 「失われた息子たち~父篇」 ルカ15章13-24節

前回、このたとえ話は「放蕩息子のたとえ話」と知られていますが、あえて「失われた息子たち」と呼びますと話しました。いきなり前言撤回ではありませんが、忘れてはいけない重要な人物がいます。「お父さん」です。そういう意味で、より正確に言うならば、このたとえ話は「二人の失われた息子たちと、そのお父さん」と言うべきでしょう。前回の内容を簡単に振り返ります。弟息子が、遺産(土地と現金)の生前分与を申し出、それを全て現金に換え、幾日もたたぬうちに遠い国に旅立ってしまいました。そして湯水のように財産を使い果たし、ちょうどそんな時、飢饉がおこり、絶体絶命のピンチを迎えてしまうのです。しかし彼はそこで我に返って、自分自身にこう言います。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』前回は、ここまで話しました。

ピンチピンチ、チャンスチャンス、ランランラン♪という替え歌に、今まで何度も励まされました。苦しみや試練を、信仰を持って受け止める時、それが回復のチャンスとなる。ただ回復するだけではなく、試練の前の状態よりも、もっとよい状態になる、そんな「再生」と「生まれ変わり」を経験してきたのです。弟息子も絶体絶命のピンチに陥りましたが、それがチャンスに変わりました。彼は苦しみの中で、自分の陥っている悲惨な状態に気付き、お父さんのもとに帰る決心をしたのです。自分の悲惨に気付くということは、なぜそんな状態になってしまったのか、その原因である罪にも気付くということです。そこで彼の口に、罪の告白が生まれました。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください(18-19)』。それは、お父さんの気持ちをなだめる単なるテクニックではありません。本当に悪かったという、心からの告白です。帰り道、彼はその言葉を、何回も何回も練習したことでしょう。そして、ボロボロになった体を引きずりながら、ひたすら家を目指しました。お父さんは許してくれるか、不安な気持ちを抱えながら…。

いよいよ家が見え始めて来たころ、向こうから、なりふりかまわず駆け寄って来る姿がありました。以前より痩せ衰え、小さくなっていたかもしれません。でも転がるように、すごい勢いで、近づいて来るのです。お父さんでした!そして何も言わず、汗と垢にまみれ、豚の臭いが染み付いていたかもしれない彼の首を抱き寄せ、何度も口付けをするのでした。弟はこみ上げる気持ちを静め、なすべきことをしようと、罪の告白をはじめます。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」本当はその後「雇い人のひとりに…」と続くはずでした。でもお父さんは、その言葉をさえぎるかのように、こう叫ぶのです。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24)。」聖書において「死」とは「関係の断絶」を意味します。弟はまさに、神様からも、お父さんからも「失われ」「死んだ」存在でした。放蕩にはじまったことではなく、実は家にいた時から、でした。彼の心には、お父さんに対する愛情も、神様に対する感謝の心もありませんでした。しかし今、彼は本当の意味で生き返り、お父さんのもとに帰って来たのです。

弟は「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と告白しました。でもその「罪」とはいったい何なのでしょう?聖書によれば、罪とは「自己中心」であり「的外れ」です。本来、私たちの命も時間も能力も、神と人とを愛するために与えられた、神様からの賜物です。でも多くの人は「神様なんて必要ない。これは私の人生だから、私の好きなように生きる。時間や能力も自分のために使う」と、自分だけを愛して歩んでいます。神様の目から見れば、そのような人は、すべて「失われ」「死んでいる」放蕩息子であり娘なのです。でも神様は、どんなに私たちが神の子としての姿を失い、罪にまみれ、御心から遠く離れていても、私たちを愛することを止めることができません。もし私たちが、我に返り、自分の生き方がいかに的外れで、神様を悲しませてきたかに気付き、帰って来るのなら、神様は大きな愛で、喜び、迎え入れて下さるのです。

全ての準備は整っている、後は私たちがその愛に気付き、方向転換をするだけである。



主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、私たちの罪にしたがって
私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、
御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
父がその子をあわれむように、
主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
詩篇103篇8-13節(抜粋)

私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
Ⅰヨハネ4章1節