2013年12月5日木曜日

その17 「タラント」 マタイ25章14-30節

前回は「十人のおとめ」のたとえ話から教えられました。「五人は愚かで、五人は賢かった」とありますが、その違いは目に見えないところにありました。十人全員、携帯用ランプを持ち、火をともして、花婿の到来を待っていましたが、5人は油壺の中に、予備の油を満たし持っていたが、他方は持っていなかったのです。「ともし火」は、外面的な信仰のことを意味し、「油」は内面的な信仰生活のことを指しています。その違いは「花婿の到来(主の再臨)」によって明らかになります。今日の「タラント」のたとえ話も、「再臨」というテーマにおいて繋がっています。

「タラント」とは何でしょうか?これは英語の「タレント」の語源にもなっている言葉です。タレントとは、日本語でいれば「芸能人」でしょう。テレビや映画に登場する、一芸に秀でた人のことです。タラントも基本的に同じ意味です。でも聖書におけるタラントと、世間一般に使われているタレントとの間には、微妙なニュアンスの違いもあります。世間一般で言うタレントは、いわゆる生まれ持った才能のことであり、それを一生懸命みがいて、上へ昇っていくためのものです。しかし、クリスチャンにとってのタラントは、神様からの一方的な恵みによって与えられた賜物(プレゼント)であり、それを用いて神様の栄光を表し、人に仕え、地上に神の国(主の平和)を広げるためのものなのです。たった一字の違いですが、意味は根本的に違っているのです。

しかも、私たちはそのタラントを「一時的に神様から預かっている」のです。今日のたとえ話はこのように始まっています。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。(14)」「預かっている」ということは、やがて「お返しする時が来る」ということでもあります。誰から預かっているのでしょうか?主人からです。その主人とは、神様のことです。しかも、預ける額が、平等ではありません。「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、それから旅に出かけた。(15)」「なんだ、不平等じゃないか!?」と思うでしょか。でも1タラントだって、約6000デナリです。1デナリは当時の日当でしたから、単純に1万円としても、6000万円になります。ちなみに、2タラントは1億2000万円、5タラントは3億円です。比べてしまうと「これぽっち…」と思うかもしれませんが、1タラントだって、決して少ない額ではありません。

また主人が「能力に応じて」と言っていることにも注目したいと思います。別な箇所には「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。えこひいきしているのではなく、しもべのことをよく知っていて主人は、それぞれに「耐えられる分(活用できる分)」を任せて下さっているのです。そこにあるのは、主人(神様)の愛です。実際に5タラント預かったものは、その能力を活かして、さらに5タラントもうけました。2タラント預かったものも、さらに2タラントもうけます。1タラント預かったものも、もし自分の能力をフルに活かせば、主人が帰って来るまでに、もう1タラントもうけることは可能だったのです。しかし彼はそうしませんでした。主人がいなくなると、すぐに出て行って「地を掘って、その主人の金を隠した(18)」のです。しかも主人が帰って来た時、彼は言い訳をして、こう言いました。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。(24-25)」何もしなかった自分の怠惰を、すべて主人(神様)のせいにしているのです(箴16:13)。彼は主人(神様)の愛が、何も分かっていませんでした。

私たちはどうでしょうか?私たちは誰でも、神様から預かっているタラントがあります。周りと比べれば、これっぽっちと思うかもしれませんが、神様から見てちょうど良く、十分に与えられているのです(Ⅱコリ12:9)。感謝して用いる時に、結果はおのずとついて来ます。主人(イエス様)は、いつ帰って来られるか分かりません。その時、私たちが何をしなかったではなく、何をしたかが問われるのです。では、お預かりしているタラントは、どのように用いれば良いのでしょう?文字通りの金儲けではなく「天に宝を蓄える」ことです(マタイ6:20)。自分のすべてを投入し、神と人を愛する。誰も見ていないところでもしっかりする。そうすることによって、私たちは天に宝を蓄えることが出来るのです。十字架の恵みをいただき、永遠のいのちに生かされながらも、自分が救われる(裁かれない)ためだけにしか生きていない人がいます。それが地に宝を埋めておく生き方です。もっと神様の愛に信頼して、自分を神と人のため、大胆に活用してみませんか?

たった一度きりの人生を、何のために用いていますか。
人生そのものが、神様から預かったタラントでもあります。






自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、

わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
ルカ9章24節

すべて、多く与えられた者は多く求められ、
多く任された者は多く要求されます。
ルカ12章48節 

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、

盗人が穴をあけて盗むこともありません。
マタイ6章20節 

なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる」と言う。

箴言26章13節