2013年7月18日木曜日

その6 「失われた息子たち~まとめ」 ルカ15章1-32節

前回、弟が帰って来た時、兄はひどく怒り、家に入ろうともせず、お父さんにこう訴えました。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(29-30)」この中の「このあなたの息子のためには」との表現に残念な思いがします。「あなたの息子」とは「自分の弟」ではありませんか。それなのに彼は、自分の弟のことを心の中で、もう帰って来るはずがない、いや帰ってこなくても良い存在として「殺して」しまっていたのです。彼は行いにおいては正しくても、愛を失った、自己中心な罪人でした。

ある人は、このたとえ話を読んで、こう思うかもしれません。「私もこのお兄さんみたいな人を知っています。嫌な思いをしました!」でもこのたとえ話は、兄を悪者にしているわけではありません。このお父さんは、弟のことも兄のことも、ご自分の子として愛していました。その証拠に、お父さんは兄にこう話しかけています。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。(31-32)」。古い新改訳には「子よ」が抜けていますが、新しい訳では加えられています(重要なことです!)。弟に対する憐れみがなく、父に対しては「こんなに我慢して一緒にいてやったのだから、俺のことをもっと正当に評価しろよ」と暴言を吐くような兄に向って、父はやさしく「(我が)子よ」と語りかけているのです。これこそ父の愛です。父は「おまえのことを愛しているよ。でも弟の事も愛しているんだ。どうか家に入って、弟の帰郷を一緒に喜んでおくれよ」とお願いしているのです。

お父さんの愛は、お兄さんと弟、どちらに対しても100パーセントです。どちらかを80愛したら、もう片方には20しか愛が残っていないということはないのです。また愛とは「行い」によって、増えたり減ったりするものでもありません。存在そのものに注がれているのです。しかし私たちは、どこかで愛を誤解してしまいます。例えば「弟より『兄タイプ』の方が愛されて当然だ」とか、「幼い時から、神様を離れず、真面目に教会生活を送ってきたクリスチャンの方が、好き放題やって、ただ憐れみによって救われたクリスチャンよりも祝福されて当然だ」などと。そういった傾向は、より「正しい人」に見られます。「正しい人」は心のどこかで「正しい評価と報い」を期待しています。そして弟タイプの人が悔い改めても、心の奥底では「自分たちの方が、祝福されて当然でしょ!」と思っているのです。しかし実際、神様は驚くほど公平な方なので、どちらも100パーセント愛してくださるのです。すると兄タイプは、その現実を受け入れられず、激しく嫉妬するのです。もし弟が100愛されるなら、自分は120愛されていないと気が済まないのです。弟より、自分の方が立派で、価値があると思っている時点で間違っています。自分の中の、人を小馬鹿にした心や、憐れみのなさ、嫉妬深さは、弟の「罪」よりも「立派」なのでしょうか?神様の前には、どちらも同じ罪人であり、どちらも失われた息子なのではないでしょうか。

この「失われた二人の息子」のたとえ話は、パリサイ人や律法学者に語られた一連の話しの一部です。彼らはイエス様が、自分たちではなく、罪人たちの方に歩み寄り、一緒に食事を取られたことに腹を立て、つぶやきました。きっと取税人や罪人より、自分たちの方が立派で、特別に扱われて当然だと思っていたのでしょう。彼らはいつもそのように「表面的な正しさ(行い)」で、自分も他人も裁いていました。しかし神様は、私たちの「行い」よりも、心に目をとめられます。その心の中を見てみるとき、果たして私たちは他の人より立派だといえるでしょうか?たとえ立派な行いをしたとしても、その瞬間、私たちの心には、その行いを誇る「偽善」が芽生えてしまうのではないでしょうか。それが人間としての現実なのです。イエス様はそんな私たちを探して救うために、十字架にかかり、自己犠牲の愛を示して下さいました。弟は、何事もなかったかのように、お父さんによって再び子として迎えられていますが、その背後には、命をもって贖ってくださった、もう一人の兄上、イエス様の愛が隠されているのです(ロマ8:29)。物語の兄も、この愛に満ちた兄上に出会い、人生の方向転換をすることが求められています。その時、この失われた二人の息子は本当の意味で父のもとに帰ってきて、神と隣人への愛に生きるものとされるのです。

義務や強制ではなく、一方的な恵みを知る時、
私たちの人生に、真の方向転換が始まる。



すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。
ローマ3章23-24節