2013年7月11日木曜日

その5 「失われた息子たち~兄篇」 ルカ15章25‐30節

前回は弟の帰郷から教えられました。家が見え始めたころ「向こうから、なり振りかまわず駆け寄って来る姿がありました。以前より痩せ衰え、小さくなっていたかもしれません。でも転がるように、すごい勢いで近づいて来るのです。お父さんでした!そして何も言わず、汗と垢にまみれ、豚の臭いが染み付いていたかもしれない彼の首を抱き寄せ、何度も口付けをするのです。そしてこう叫びました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24)。」この箇所より、私たちはお父さんの深い愛を学びました。今日はその続きです。

祝宴が始まり、音楽や踊りが始まった頃、もう一人の息子、お兄さんが仕事から帰ってきました。兄が「これは何事か」と、しもべの一人に聞くと、弟が帰ってきて、喜んだ父が、肥えた子牛をほふって、祝宴を催したと答えるではありませんか(25)!その瞬間、お兄さんは、一瞬にして怒りの頂点に達し、肩を震わせ、家に入ろうともしませんでした。きっと、お兄さんは生真面目な性格だったのでしょう。財産の生前分与を受けても(12)、弟のようにその財産を食いつぶすことなく、こつこつ働き、畑仕事から、雇い人の世話まで、何から何まで一手に引き受け、この家を守って来ました。お父さんは既に高齢で、実務からは手を引き、弟のことばかりを気にかけ、来る日も来る日も玄関先で、弟の帰りばかりを待ちわびていたのかもしれません。そんな父の姿を横目に、お兄さんは、もしかしたら「僕がいるのに、どうしてそんなに悲しむの」と思っていたかもしれません。でもそんな事は一言も口にすることもなく、歯を食いしばって、辛い仕事にも耐えて来たのです。辛くはありましたが、それがお兄さんの誇りでもありました。村の人々が、そんなお兄さんの姿を見て「お兄さんは偉いわねぇ、それに引き換え弟は…」と憐れみに満ちた声で言うなら、その「比較こそ」彼の喜びでありました。そして「お父さんも、きっとこんな自分を、弟よりも余計に愛して、認めて、褒めてくれるだろう」と思い、それを心の支えとしていました。弟のことは、少しは心配したかもしれませんがが、比較的どうでもよいことでした。それよりも自分の評判のほうが大事だったのです。しかしそんな彼の期待は、無残にも踏みにじられました。

なんと父は弟の帰郷を喜び、自分がいない間に、祝宴を始めてしまったというのです。お兄さんにとっては、今までの苦労を、すべて裏切られたような、許しがたい出来事でした。でも、お父さんは何も裏切っていません。お父さんにとっては「二人とも、かわいい自分の息子たち」なのです。優劣はありません。お父さんにとっては至極当然のことをしたまでです。しかし、その「お父さんにとっては至極当然のこと」すなわち「二人とも同じだけ愛している」ということが、お兄さんにとっては「もっとも許しがたい裏切り」だったのです。そこで彼は、自分の怒りの正当性を父にぶつけます。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(29-30)」ここに、いくつかの誤解があります。①お兄さんは、良い行いをすれば、余計に愛してもらえると思っていたこと。②子山羊一匹くれないと言っていますが、財産を二人に分け、弟はすべて持ちだしたのだから、残りはすべて兄のものだという事実。③弟のことを「遊女におぼれて…」と言っていますが、まだ弟に会ってもいないのに、勝手に決め付け、嫉妬の炎を燃やしていることなど。もはや冷静な判断を失っています。

しかも、このお兄さんは「あなたの息子のためには、肥えた子牛を」と言っているではありませんか。「あなたの息子」ということは、当然「自分の弟」でもあります。なのに彼は、弟のことを心の中で、もう帰って来るはずがない、いや帰ってこなくても良い存在として「殺して」しまっていたのです。また彼は家にはとどまりましたが、お父さんを愛していたわけではなく、「自分の評判」を愛していたのでした。そんな彼は弟と同じく「失われたもう一人の息子」でした。父に象徴される、神様への愛も、弟に象徴される隣人への愛も失った、さまよい歩く罪人だったのです。



誰かと比較すればするほど、愛は遠のいていく。
行いで解決しようとすればするほど、愛は分からなくなる。
愛とは、そのままのあなたに注がれている。
悔い改めたから愛されるのではない、
愛されているから悔い改めるのだ。
神様の愛に帰ろう。
祝宴の準備は整っている。



すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。
それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
ルカ15章28節

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたは、どこにいるのか。」
創世記3:9