2013年7月3日水曜日

その4 「失われた息子たち~父篇」 ルカ15章13-24節

前回、このたとえ話は「放蕩息子のたとえ話」と知られていますが、あえて「失われた息子たち」と呼びますと話しました。いきなり前言撤回ではありませんが、忘れてはいけない重要な人物がいます。「お父さん」です。そういう意味で、より正確に言うならば、このたとえ話は「二人の失われた息子たちと、そのお父さん」と言うべきでしょう。前回の内容を簡単に振り返ります。弟息子が、遺産(土地と現金)の生前分与を申し出、それを全て現金に換え、幾日もたたぬうちに遠い国に旅立ってしまいました。そして湯水のように財産を使い果たし、ちょうどそんな時、飢饉がおこり、絶体絶命のピンチを迎えてしまうのです。しかし彼はそこで我に返って、自分自身にこう言います。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』前回は、ここまで話しました。

ピンチピンチ、チャンスチャンス、ランランラン♪という替え歌に、今まで何度も励まされました。苦しみや試練を、信仰を持って受け止める時、それが回復のチャンスとなる。ただ回復するだけではなく、試練の前の状態よりも、もっとよい状態になる、そんな「再生」と「生まれ変わり」を経験してきたのです。弟息子も絶体絶命のピンチに陥りましたが、それがチャンスに変わりました。彼は苦しみの中で、自分の陥っている悲惨な状態に気付き、お父さんのもとに帰る決心をしたのです。自分の悲惨に気付くということは、なぜそんな状態になってしまったのか、その原因である罪にも気付くということです。そこで彼の口に、罪の告白が生まれました。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください(18-19)』。それは、お父さんの気持ちをなだめる単なるテクニックではありません。本当に悪かったという、心からの告白です。帰り道、彼はその言葉を、何回も何回も練習したことでしょう。そして、ボロボロになった体を引きずりながら、ひたすら家を目指しました。お父さんは許してくれるか、不安な気持ちを抱えながら…。

いよいよ家が見え始めて来たころ、向こうから、なりふりかまわず駆け寄って来る姿がありました。以前より痩せ衰え、小さくなっていたかもしれません。でも転がるように、すごい勢いで、近づいて来るのです。お父さんでした!そして何も言わず、汗と垢にまみれ、豚の臭いが染み付いていたかもしれない彼の首を抱き寄せ、何度も口付けをするのでした。弟はこみ上げる気持ちを静め、なすべきことをしようと、罪の告白をはじめます。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」本当はその後「雇い人のひとりに…」と続くはずでした。でもお父さんは、その言葉をさえぎるかのように、こう叫ぶのです。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24)。」聖書において「死」とは「関係の断絶」を意味します。弟はまさに、神様からも、お父さんからも「失われ」「死んだ」存在でした。放蕩にはじまったことではなく、実は家にいた時から、でした。彼の心には、お父さんに対する愛情も、神様に対する感謝の心もありませんでした。しかし今、彼は本当の意味で生き返り、お父さんのもとに帰って来たのです。

弟は「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と告白しました。でもその「罪」とはいったい何なのでしょう?聖書によれば、罪とは「自己中心」であり「的外れ」です。本来、私たちの命も時間も能力も、神と人とを愛するために与えられた、神様からの賜物です。でも多くの人は「神様なんて必要ない。これは私の人生だから、私の好きなように生きる。時間や能力も自分のために使う」と、自分だけを愛して歩んでいます。神様の目から見れば、そのような人は、すべて「失われ」「死んでいる」放蕩息子であり娘なのです。でも神様は、どんなに私たちが神の子としての姿を失い、罪にまみれ、御心から遠く離れていても、私たちを愛することを止めることができません。もし私たちが、我に返り、自分の生き方がいかに的外れで、神様を悲しませてきたかに気付き、帰って来るのなら、神様は大きな愛で、喜び、迎え入れて下さるのです。

全ての準備は整っている、後は私たちがその愛に気付き、方向転換をするだけである。



主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、私たちの罪にしたがって
私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、
御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
父がその子をあわれむように、
主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
詩篇103篇8-13節(抜粋)

私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
Ⅰヨハネ4章1節