2014年2月6日木曜日

その22「金持ちとラザロ」 ルカ16章19-31節

前回は「ぶどう園で働く労務者」のたとえ話から学びました。そのあらすじは簡単にいえば、早朝から働いた者も、午前9時、正午、午後3時、はたまた夕方の5時から働いた者も、同じ一デナリの賃金をいただくという、何とも理不尽に聞こえる話しでした。でもそれが「天の御国」だとイエス様は言うのです。つまり1デナリとは「永遠のいのち」のことです。「永遠のいのち」は、働きに対する「対価」のようなものではなく、ただ神様からの「一方的な恵み」なのです。 今日のたとえ話の登場人物は、聖書のたとえ話では唯一、固有名詞(名前)で呼ばれています。

彼の名前はラザロと言いました。彼はとても悲惨な人物としてえがかれています。全身におできができて、来る日も来る日も金持ちの門前に身を横たえていました。その姿は、旧約聖書に登場する、頭の頂から足の裏まで悪性の腫物で覆われた、苦難のしもべヨブを思い出させ、「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」姿は、豚のえさで腹を満たしたいと思っていた放蕩息子を思い出させます。更に犬が彼のおできをなめていた点において、このラザロは、卑しい動物として扱われていた、犬にも憐れまれる存在として描かれているのです。一方の金持ちは、まるで王様のように(権力の象徴である)紫の衣を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていました。そしてある日突然、ラザロは天に召され、まもなく、この金持ちも息を引き取ったのです。 

その後、場面はいっきに、ハデス(地獄)と天の御国に移ります。ここで登場しているのは、信仰の父であり、イスラエルの父(祖)であるアブラハムです。ラザロはそのアブラハムのふところに抱かれて、金持ちは、はるかかなたで炎に包まれています。アブラハムは、この金持ちに二つのことを語ります。一つは、金持ちが生前、ラザロをはじめ貧しい者たちに冷淡であったことを暗に非難しています。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」もう一つは、一度死んでしまってから、天国と地獄は、決して行き来できないことです。「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできない。」ちなみにイエス様は、このたとえ話で、神様が語るべきことを、全てアブラハムに語らせています。それは、神様よりもアブラハムの方が信仰により所になってしまっている、彼らのズレを気付かせるためです。 

このたとえ話の意味は何でしょうか。貧しい人や、困っている人には、親切にしなさいという「道徳」を教えておられるのでしょうか?確かにそういう意味もあります。しかし、このたとえ話の意味は、それ以上です。この話しの直前に「金の好きなパリサイ人(ルカ16:14)」という言葉が登場しますが、今日の「金持ち」は、パリサイ人のことです。彼らはもともと、比較的貧しい人々の集団であり、純粋に神様を求め、人々に熱心に旧約聖書の律法を教えていました。しかし、段々と人々から尊敬され、広場で挨拶されるようになると、その時代の特権階級となり、お金に目がくらみ、本来の純粋さをなくして行ったのです。そして、自分たちは、誰よりも神様を「正しく信じている」という自分の義に酔いしれ、人々に対する救霊の思い(神様を知ってほしいという情熱)を失ってしまったのです。一方のラザロは、彼らの周りに溢れていた、罪にまみれ、自分の力では立ち上がることのできない、本当に意味で神様を必要としている人々のことでした。なのに彼らは、本当の神様を知りながら、そういう人々に冷淡で、差別や軽蔑さえしていたのです。 

更に続きがあります。金持ちはアブラハムに「ラザロを家に送ってください」と叫ぶのです。ハデスの火があまりにも苦しく「自分の兄弟までもがこんなところにくることのないように」と頼ってのことです。それに対しアブラハムは、やはり二つのことを答えます。一つは、与えられている「モーセと預言者」つまり「聖書」で十分だということ。もう一つは、その聖書に耳を傾けないなら「誰かが死んでよみがえっても、決して悔い改めない」ということ。事実、パリサイ人たちは、同じ名前のラザロ(ヨハネ11章、偶然の一致ではない)がよみがえっても、また何より、イエス様が十字架にかかり3日目によみがえられても聞き入れようとはしませんでした。私たちも、何か劇的なことが起こったら信じようと思ったことはないでしょうか?でも必要なことは、すべて聖書に書いてあるのです。その御言葉を信じ、たとえラザロのように、苦難の道を歩むことがあっても「神は我が救い(ラザロの意味)」と神様に希望を置き、前進し続けることが大切なのです。

人は「○○だったら」と考えたがる。
でも答えはもう既に与えられている。


『彼らには、モーセと預言者があります。
その言うことを聞くべきです。』
ルカ16章29節






聖書はあなたに知恵を与えて

キリスト・イエスに対する信仰による救いを

受けさせることができるのです。 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 

Ⅱテモテ3章15-16節