2014年3月19日水曜日

その27「種蒔き」 マルコ4章1-23節

前々回の「ぶどう園と農夫」のたとえ話と、今回の「種まき」のたとえ話しは、イエス様のたとえ話の中でも特に重要だとみなされています。なぜなら、この二つだけは、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に共通して記されているからです。また今日の本文の中でも、イエス様が「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう」と言われているように、あらゆるたとえ話の中でも「基本中の基本」として語られています。また「みことばをよく聞く」というテーマにおいては、前回の「岩の上の家」にも通じています。

たとえ話自体は単純です。ある人が、種蒔きに出かけました。①ある種は、種が道ばたに落ちて、鳥に食べられてしまいました。②別の種は、土の薄い岩地に落ち、すぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないために枯れてしまいました。③また別の種は、いばらの中に落ち、ふさがれてしまったので実を結びませんでした。④しかし最後の種は、良い地に落ち、そこで芽ばえ、育ち、三十倍、六十倍、百倍に増えて行ったのです。その直後、イエス様ご自身が説き明かされました。①道ばたに蒔かれるとは、みことばを聞いても、心が頑なに受け入れず、サタンにその種を持ち去られてしまう人のことです。②岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くとすぐに喜んで受けるが、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のことです。③いばらの中に種を蒔かれるとは、困難や迫害ではなく、その逆の富や欲望によって、心の目や耳をふさがれてしまう人です。④しかし、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れる人です。そういう人は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。そして、この一連のたとえ話はイエス様の「良く聞きなさい(3節)」に始まり「聞く耳のあるものは聞きなさい(9,23節)」で終わっているのです。

このたとえ話と、説き明かしの間には、イエス様の本音トークが添えられています。群衆たちがいなくなり、12弟子とイエス様だけになった時、イエス様は言われました。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」二重カギ括弧内は旧約聖書(イザヤ6:9)の引用です。つまりイエス様は、ある者たちには、聞いても悟ることのないように、あえて「たとえで話した」と語られているのです。でもそれは決してイジワルではありません。聞く耳のある者には、ちゃんと分かるように、身近なモチーフ(題材)で語られているということでもあります。今回のたとえ話の「種」とは「みことば」のことです。カチコチの道に落ちた種とは、最初から「聞く気のない(聞く耳をまったく持たない)」人の心のことです。聞く前から、偏見と先入観で凝り固まっているので、たとえ、みことばが、物理的には聞こえていても、ぜんぜん心に響かないのです。そうすると「リカイの反対はイカリ」と書きますが、ますます分からなくなり、次第に頑なになっていくのです。こうして「聞く耳を」持つ者は、益々豊かになり、持たない者は、持っているものまで失うのです。

一番大切なのは「聞く(聴く)耳を持ち続けること」です。どの地に蒔かれるか(蒔かれたか)ということは、運命決定論的に理解してはいけません。この人の心は、かたい道ばたのようだからもうダメだとか、この人は岩地だから、この人はいばらの中だからとか、決めつけてはけません。どんな人でも、「良い地」に変わる可能性を秘めているのです。いったいどのようにしてでしょうか?それは、みことばを聞き続けることによってです!一度は迫害に屈してしまっても、富の誘惑に負けてしまっても、一度はどうしても理解できない(受け入れられない)と思っても、それでも神様から離れないで、謙遜にみことばを聞き続けるなら、その人の心は少しずつ耕され、フカフカの良い地に変えられていくのです。しかし、最初から聞く耳を持たなかったり、聞いたけれど何にも変わらなかった、「みことばを聞いても無駄だ。もうここに救いはない」と安易に決めつけて、心の耳を閉ざしてしまうなら、その人の成長はそこで止まってしまうのです。「良い地」とは、謙遜に、みことばを聞き続け、信仰によって受け止める人の心なのです。そういう人は、天に向かってグングン成長していきます。そして神様は、そういう人を通して、神の国をこの地上に広げて下さるのです。そういう人は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶでしょう。その実とは、愛、喜び、平安といった「御霊の実」であり、神と人とを愛する人生そのものなのです。

信仰の基本中の基本とは、みことばをしっかり聞き、あきらめずに聞き続け、信仰によって受け止めることなのです。


良い地に蒔かれるとは、
みことばを聞いて受け入れ、
三十倍、六十倍、百倍の
実を結ぶ人たちです。
マルコ4章20節


そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについての
みことばによるのです。
ローマ人への手紙10章17節