2014年3月6日木曜日

その25「ぶどう園と農夫」 マタイ21章33‐46節

前回のたとえ話の隠れたテーマは「権威」でした。それに先立って記されていたのは、祭司長および民の長老たちとの対話でした。イエス様が宮で教えておられると、彼らは「何の権威によって、これらのことをしているのか。」と詰め寄って来たのです。「俺たちの許可なしに何してる?俺たちの権威を軽んじるな!」というわけです。しかしイエス様は「バプテスマのヨハネは、どこから来たのですか?」と逆質問されました。彼らは応えられませんでした。ヨハネは「天から(神様の権威によって)来た」と認めていた群衆を恐れたからです。彼らが恐れていたのは「人目」だと露呈した瞬間でした。今日のたとえ話は、その直後に記されています。つまり続きです。

今日のたとえ話は、悲しい話しです。ある家の主人が、ぶどう園をつくりました。そして、その園を、農夫たちに任せて、旅に出かけたのです。でも彼らを信頼して任せただけですから、主人には収穫から自分の分を受け取る権利がありました。収穫の時期が近づいた時、主人はしもべたちを農夫たちのところに遣わしました。しかし農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋叩きにし、ひとりは殺し、一人は石で打ったのです。主人は諦めず、もっと多くのしもべたちを派遣しました。しかし農夫たちは同じ仕打ちを加えました。主人はなおも諦めず「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言い、なんと自分の息子を遣わしました。それを見た農夫たちは相談しました。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」そうして、その息子をつかまえ、ぶどう園の外で殺してしまったのです。

そもそもぶどう園は、誰ものものでしょうか?主人のものです。主人が、そのぶどう園をつくって、垣根を巡らしたのです。しかし農夫たちは、そのぶどう園を、まるで自分たちのもののように勘違いし、主人に返すべきものを惜しんだのです。自分たちはぶどう園を借りて、耕し、その収穫から、いくらか恵みをいただけるだけでも幸せなのに、いつのまにか欲が出て、所有者意識が芽生え、自分が園の主人のようになってしまったのです。この農夫たちは、直接的には、祭司長や民の長老たちのことです。彼らは、民の中の有力者で、いつも人前に立ち、発言し、神殿での儀式を取り仕切っていました。そうするうちに、段々「神の家」であるはずの神殿を、自分たちの家であるかのように勘違いしてしまったのです。だから、神のひとり子であるイエス様が現れ、ご自分の家である宮で教えたのに「俺たちの許可を得たか?」なんて、とんちんかんな事を言い出したのです。今に始まったことではありませんでした、旧約聖書の時代にも、彼らの仲間たちは、神様に遣わされたしもべたち、すなわち預言者たちを苦しめ、石で打ち、殺してきたのです。

ぶどう園の外に追い出され、殺された息子とはイエス様のことです。旧約聖書での、ぶどう園は、イスラエルの象徴(イザヤ5:7)。この後、イエス様は、イスラエル中の人々に嫌われ、罵られ、十字架につけられてしまいます。最初、この話しを聞いた人々は、自分たちとは無関係だと思い「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を別の農夫たちに貸してしまえ!」と言っていました。しかし徐々に、それが自分たちのことを言っていると分かると、彼らは激怒し、イエス様を捕らえようとしました。しかしこの時も、群衆を恐れ、できませんでした。この時点で群衆たちは、イエス様を預言者と認めていたからです。どこまでも人目を気にする祭司長たちでした。

私たちにとっても無関係ではありません。私たちにとってのぶどう園とは、神様か与えられた人生や、神様から預かっている賜物です。それらは本来、神様のものなのに、私たちはそれを、自分のものだと勘違いしていないでしょうか?そして全部自分のために使い、神様に捧げることを惜しんでいないでしょうか?そういう生き方がイエス様を十字架につけたのです。私たちこそ、ぶどう園から追放されてもおかしくない存在です。しかしそれでも私たちは、生かされ、赦され、新しいぶどう園(神の国)に招かれています。しかも農夫としてではなく、主人(神様)の子として。なぜでしょうか?それはイエス様が、私たちの代わりに見捨てられてくださったからです。聖書にこうあります。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』またその背後には、決してあきらめない神様の愛があります。私たちが何度、間違いを犯しても、それもでも信じ、再びチャンスをくださる神様。私たちは、これ程にまで愛してくださる神様を恐れ、この方にだけ仕えるべきなのです。

権威とは、すべては神様のものであることを認め、その愛に気付き、この方のために喜んで生きることである。

イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石。
それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。
私たちの目には、不思議なことである。』
マタイ21章40-42節

主よ。われらの神よ。
あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、
あなたのみこころゆえに、万物は存在し、
また創造されたのですから。
黙示録4章11節